かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

渡るには橋銭が必要だった十文橋

スポンサーリンク

かすかべには、古くから、日光道中をはじめ、岩槻道や関宿道などの古道が通っていました。これらの古道は、いずれも当地と各地を結ぶ政治・文化・産業面で重要な役割を果たしてきました。 

そして、これらの道は、地域内で古利根川や古隅田川その他多くの用水排水路に交差しているため、渡河のためには、水嵩が少ない時期以外には、何らかの渡河の手段が必要でした。往古は、簡易な丸木橋が架けられ、その後、時代とともにより堅固な橋に架け替えられてきました。

と言うことで、

今回のかすかべ古橋物語は「十文橋」。 

この橋にもいろいろ歴史がありました。

f:id:takejiisan:20190318130636j:image

橋名のプレート。「橋名板」(きょうめいばん)と言うそうです。下記に詳しく。

f:id:takejiisan:20190318130653j:image 

ひらがな表記

この橋も(じゅうもんばし)では、なく(じゅうもんはし)なんです。橋の名はみんなこう読むのかな、良く分かりません。

と言うことで、早速、調べてみました。図書館で調べましたが、わかりませんでしたので、止むなく、Wikipediaの力を借りました(すみません)。

橋名板 

橋名板(きょうめいばん)とは、橋梁の名称などを示すために設置される板のことで、橋の起点側・終点側、橋に向かって左側・右側、合計4箇所に、それぞれ橋名板が設置される。なお、これは国土交通省の道路橋示方書に基準が示されているものではなく、自治が発注する場合の仕様書などに示されている場合が多い。

記載事項の設置一覧

多くの橋名板での、記載事項の位置は、次のようになっている。

  • 道路起点から見て左側に「漢字表記の橋名」
  • 道路起点から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地物名」
  • 道路終点側から見て左側に「ひらがな表記の橋名」
  • 道路終点側から見て右側に「竣工年月」 
「橋」の読み

橋名のひらがな表記については河川台帳等にある正式の読みとは関わりなく、「○○橋→○○はし」のように濁点を抜いて記載すると、規定している例がある。

河川の読み

同様に、正式には○○川(○○がわ)であっても、橋名板上では、濁点を抜いて「○○かわ」のように記される例がある。これは「水が濁らないように」との願いから慣習的に行なわれきたものである。

そうなんだ。初めて知りました。

早速「古利根公園橋」や「新町橋」などを調べてみると、いずれも上記のように表記されていました。ただし、橋の起点は古利根公園橋も新町橋も共に、粕壁宿の対岸の八丁目、小渕側が起点でした。やはり、埼玉県も慣習的に、この様に決めているようです。今後は他の橋を見る時にも忘れずに確認したいと思います。

それにしても、ブログを書くことは勉強になります。

f:id:takejiisan:20190318132504j:image

道路起点から見て右側に河川名( 漢字表記)

 

f:id:takejiisan:20190318180959j:image

道路終点から見て右側に竣工年月

f:id:takejiisan:20190318181136j:image

「十文橋」の全景

この橋の道路起点は、左側の粕壁宿になります。

 

さて、前置きは、これくらいにして、本題に入りましょう。 

f:id:takejiisan:20190318131005j:image

ここは古隅田川古利根川の合流点

f:id:takejiisan:20190318180440j:image

一級河川「古隅田川」の標識(埼玉県)。ほとんど文字が消えかかっています。

隅田川

この橋が架かる古隅田川は、『新編武蔵風土記稿』によると、もとは大河でした。かっては、利根川の本流で、武蔵国太田庄と下総国新方庄を隔てていた国境の時代もありました。

往古、川の流れは、今と逆で、利根川が小淵付近で大きく湾曲して、西の方へ流れ、元荒川に合流していたそうです。想像もつきませんが。  

梅田の地名

橋を渡った地域は「内牧村梅田」と呼ばれるところですが、古利根川と古隅田川に挟まれた湿地帯のため、川の流域を埋めて耕作地にしたことから、埋めた田、すなわち埋田、転じて「梅田」となったという説と、もう少し上流の新方袋というところに、謡曲隅田川』などで知られる「梅若伝説」があり、梅若の「梅」から梅田となった、という説があります。

しかし、古来、日本の地名は、その土地の形状や、利用の目的、周りの環境などで命名されたものが多く、この土地もやはり“埋め田”だったのではないでしょうか。

一方、この地域は、古利根川と古隅田川に挟まれた水はけの良い砂混じりの耕地と言う利点を活かして、牛蒡(ごぼう)、特に「梅田ごぼうの産地として知られていました。なお、「梅田ごぼう」については、改めて書く予定です。
この川の流域は、明治・大正時代には、度重なる水害を受け、この地域で生活する人々にとっては河川改修が悲願でした。昭和になっても昭和13年と同16年に洪水の被害があり、戦時中の昭和19年に河川改修が行なわれ、ようやく水害は、なくなったそうです。  

十文の渡し

隅田川古利根川に合流する少し手前の現在の県道春日部・久喜線に架かる橋が、この「十文橋」です。明治時代中頃まで、ここに「十文の渡し」がありました。

もともとは菖蒲道として、当地と菖蒲(現在の久喜市菖蒲)を結ぶ幹線道路でしたが、明治年間に上流の浜川戸橋(現梅田橋)が石橋に掛け替えられ、菖蒲道の道筋も変わってしまい、この渡しも廃止されました。

そのため、この地域の人々は対岸の粕壁に行くためには、遠回りして、浜川戸橋を利用せざるを得なくなり、すぐ目の前の商業地にも簡単には足を運べなくなりました。

この不便さを解消すべく、明治23年、地元の岩松初五郎氏(現在の十文橋のたもとに居住している岩松家の四代前)が、個人で橋を架け、賃取橋(ちんとりばし)にして地域の住民や往来の人たちの便を計りたいと、埼玉県知事に許可を願い出ました。その後、正式に県知事の許可が下り、長さ八間(14.4m)、幅一間(1.8m)の木橋を架けて、通行者から橋銭を徴収しました。

現在、橋のたもとにある岩松家には、当時の橋銭の定額を記した標示板が保存されています。数年前、たまたま拝見する機会がありました。また、たもとの句碑の裏面にも刻まれいます。

渡船賃定額

一、徒歩   一人   金壱厘

  但、満三歳未満児ハ無賃

一、牛・馬  一疋  金弐厘

一、荷牛馬車 一輌  金弐厘 

一、人力車  一輌  金壱厘  

一、駕竜   一挺  金壱厘

一、長持   一棹  金壱厘

一、諸荷物  一荷  金壱厘

一、諸荷物  一駄  金壱厘

  右之通官許ヲ得候事

埼玉県南埼玉郡内牧村梅田

      岩松初五郎

この橋銭の壱厘は、当時、十文とも言われたので、地域の人々から「十文橋」と呼ばれ、親しまれていたとのことです。

その後、大正時代には橋銭が五厘となり、昭和になってからは、壱銭と改められましたが、橋の名は「十文橋」のままで、昭和十年までこの賃取橋は続いたと言うことです。

後に県道春日部・久喜線の改良工事によりその橋も掛け替えられましたが、橋名の「十文橋」はそのまま残り、その後、永久橋に架け替えられました。

なお、現在の橋は、10年前の平成21年6月に竣工したものです。現代でも「“十文”橋」としてその名が残されています。そして、これからも。

当時、一厘は、十文に当たったそうです。一文は、約12円とも言われていますので、一厘は、今の価値で表すと約120円程度だったと思われます(違ったらごめんなさい)。

橋のたもと(駐車場)には、「石碑」と「句碑」があります。 

f:id:takejiisan:20190318134452j:image

右石碑  左句碑

石碑

f:id:takejiisan:20190318131123j:image

表面には、

      隅田川  十匁渡し跡

                        八十五■ 竹里書 

f:id:takejiisan:20190318180616j:image

裏面には、 

   船場の跡

         なつかしや花菖蒲 

     伊勢社宮司庁課◼️◼️  大竹九平 

そして、前記の「渡船賃定額」が刻まれています。◼️は欠字もしくは判読不明の箇所。

句碑

f:id:takejiisan:20190318134417j:image

表面には、 

   よし切や  渡船  わたれは  五戸の村

                                  天朗

五戸の村の「の」は、能のくずし字?。本当に五戸の村だったのでしょうか、わかりません。

「よし切り」は、スズメ目の鳥のことで、水辺の葦原にすみ、冬は南方へ渡るそうです。

天朗は、裏面を見ると、平原寛空師の俳号とのこと。江戸時代天保、弘化の頃1838〜48の俳人新井天朗(あらいてんろう)ではなかったようです。

裏面には、

f:id:takejiisan:20190318141145j:image

隅田川はその末流が古利根川に注がれているが、その川の對岸は梅田部落である、この梅田部落は最近住宅が建てられ純市街化して来たが明治大正の時代には農家が数戸点在する寂しい村であった、しかも古隅田川には今日のような架橋もなく渡船を利用して通行したもので河畔には葭柄が茂って初夏には葭切が鳴いていたものである、

今日回顧する時今昔の感に耐えない、この渡船場な初代は岩松初五郎氏でその曾孫にあたる当主岩松喜市氏は其の変遷を偲ぶよすがにしたいと老衲に句碑建設の議を申込まれた、老衲は師弟の関係にある岩松氏の申し出でもあるのでその時の拙句を刻し其の由来を誌すことにした、

  昭和四十ニ年秋 仲蔵院住職 平原寛空 

                七十五才

とあります(判読に時間がかかりました)。なお、老衲(ろうのう)の「衲(のう)」とは僧呂がまとう衣のこと。また、平原寛空師は、小渕の寺院仲蔵院の第十五世の住職だった方。

 

武蔵国郡村史』によると、かすかべには、この他、大落古利根川下流の藤塚、赤沼にも同様の渡があったようです。

 

そう言えば、テレビの必殺シリーズで、藤田まことさん演じる中村主水が橋のたもとの小屋(番屋?)で橋銭を管理しているシーンがありました(恐らく)。「十文橋」もあんな感じだったのでしょうか。

最後に

現在の岩松家は、表札が「岩松工房」となっています。そして、玄関先には、仏像もあります。それもそのはず、今のご当主は工房を営む仏師さんなのです。寺町の妙楽院にも作品があるとのことです。

もうすぐ桜の季節がやってきます。古隅田川沿いの見事な桜が今年もこの橋の上から見られることでしよう。

f:id:takejiisan:20190318180657j:image

橋の向こうに見えるのは最勝院です。

地名の“かすかべ”の表記には、春日部と粕壁があるので、私は平仮名で“かすかべ”としています。そのほうが見た目も柔らかく自分でも気に入っています。

おまけ

f:id:takejiisan:20190318180744j:image

駐車場の片隅に何故か石製のだるまさんが。岩松師の作品でしょうか?

 

参考文献:

春日部市史  第六巻  通史編Ⅰ

・『かすかべの歴史余話』須賀芳郎著 1977

  年〜