かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

粕壁宿を歩るく方必見! 必ず訪れたい古刹「最勝院」

スポンサーリンク

日光道中粕壁宿の突当りのこの辺りは、寺町と呼ばれ、5つの寺院が並んでいます。その中で、粕壁宿近在の本寺といわれていた寺院が粕壁宿の古刹「最勝院」です。

f:id:takejiisan:20190325145456j:image

山門

華林山慈恩寺最勝院

f:id:takejiisan:20190325145525j:image

寺院名碑

f:id:takejiisan:20190325145543j:image

門前にある案内板

最勝院  

    所在地 春日部市粕壁338

最勝院は、新義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて最勝院のほか、妙楽院、成就院、玉蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を残している。

 最勝院の本堂西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。

 春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任じられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。

 明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十ニ年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興業、各種の武道大会等にも利用された。

 また、明治ニ十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。

 昭和六十一年三月

           春日部市

『新編武蔵風土記稿』によると、

新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、慶安元年(1486)15石の御朱印を賜ふ、相伝ふ往古は慈恩寺観音堂の別当なりしが、永正元年(1054)奝尊といへる僧の住職せし頃、故ありて彼を辞して当所ヘ引移れり、因って華林山慈恩寺最勝院と称すと云、されど此伝へ慈恩寺にては、沙汰せざることなれば疑ふべし、此僧慈恩寺の住職たることはさもあるべし、思ふに彼が慈恩寺に在し、内別に一寺を当所へ建立し、山号・寺号共に本寺の称号を襲ひ用ひ、其内寺号は本尊の通称たるをもてこれを憚り、其院号をもて常の称とせしものならん、さるにより始は天台宗なりしが、中古今の宗に改む、中興開山を俊弘と云、延宝七年(1679)示寂、墓所に石碑あり、此僧高徳の聞えありて、僧俗の信仰斜ならず、示寂の後も諸人群詣すと云、其後法流の開祖を俊慶と称す、正徳元年(1771)十一月二十日寂す、
本尊千手観音、弘法大師の作と云。
鐘楼元禄四年(1701)鋳造の鐘をかく。
寺宝繍御打敷二枚。慶安四年(1650)大猷院殿日光山へ御葬送の時、当寺御旅館となり、其節賜りしと云、御棺の上を覆ひし御品なれど、今は御打敷と唱えり、惣体鳥獣草花を織出し、幅は上の方三尺、下は広ごりて、九尺許あり。
護摩堂、不動を安ず。
稲荷社。

と記されています。江戸時代には鐘があったようですが、今はその痕跡もありません。残念‼

『武蔵国郡村誌』には、  

新義真言宗京都醍醐寺三寶院の末派なり、開山奝尊創建未詳。

と簡単に記されています。

なお、『新編武蔵風土記稿』と『武蔵国郡村誌』については、こちらの記事をご参照ください。

 

www.takejii.xyz

大猷院とは、徳川三代将軍家光のことです。日光に葬送される際、この最勝院が宿泊場所になり、その際、御打敷が下賜されたとされています。

仏教では、打敷は、本来下に敷くもののようですが、その時は、家光の棺を覆ったと記述されていますね。 

岩槻の慈恩寺

『新編武蔵風土記稿』の記述にある慈恩寺とは、「華林山最上院慈恩寺」という天台宗の寺院で、お隣のさいたま市岩槻区の慈恩寺(地名になっている)にあります。

岩槻の慈恩寺は、天長年間(824年 - 834年)円仁(慈覚大師)の開山によって創建されたと伝えられています。天正18年(1590)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591)に寺領を寄進され、江戸時代には江戸幕府のほか岩槻城主の帰依も得たとのことです。戦前の日中戦争時の昭和17年(1942)12月に日本軍が南京で発見した三蔵法師玄奘の遺骨の一部が戦後、この寺に奉安され、その後、昭和28年(1953)5月に落慶した、十三重の花崗岩の石組みによる霊骨塔・「玄奘塔」があることで知られています。

また、昭和30年(1955)に日台友好のため、台湾に分骨され、現在は日月潭の玄奘寺に奉安されているとのこと。さらに昭和56年(1981)には、玄奘の属する法相宗の奈良・薬師寺にも分骨されており、現在は薬師寺境内の玄奘三蔵院に奉安されているそうです。

『新編武蔵風土記稿』の記述の通り、岩槻の慈恩寺の僧奝尊がかすかべの最勝院を創建し、その際、山号・寺号は岩槻の慈恩寺そのまま受け継ぎ、「華林山慈恩寺」とし、院号は岩槻の慈恩寺(院号は最上院)に憚って(遠慮して)「最勝院」として、通称にしたようです。

しかし、岩槻の慈恩寺側では、この経緯を知らない?と言っているんですね。一体何があったのでしようか。

郷土史家の須賀芳郎氏は、この辺の経緯を

最勝院は、現在地に設置されたのは、平安時代と思考される。

最初は、この地に紀氏朝臣の子孫である、兵三武者紀氏實直【さねなお】の四男の左衛門尉【さえもんのじょう】實高【さねたか】が、在地名、春日部を名乗り春日部氏となった時、春日部氏の学問の師として迎えたのが、慈恩寺の別当奝尊僧正であった。初めは寺と言うより学問所の庵として設置されたと推定される。後に慈恩寺から、弘法大師作の『千手観音菩薩像』を移され、ここに寺を開いたもので、寺号も本寺の名称『華林山最勝院慈恩寺』と唱えたが、本寺と紛らわしくなるので、院号と寺号を入れ替えて『華林山慈恩寺最勝院』と称したと伝えられている。
元は天台宗であったが、『玉藏院』の先々代の児島隆傳和尚より聞かせられたところによると、江戸時代になって、新義真言宗智山派の本寺が江戸に建立されて、江戸付近の主要な町に、学僧を派遣して『真言問答』を展開し、宗派の拡大の布教を始めて「問答」に負けた寺は、その場で転派させられた時代があり、粕壁宿内の主たる寺は、新義真言宗智山派に隷属したのだと言われている。最勝院は粕壁宿近在の寺院の本寺であったので、それぞれの末寺も本寺に倣って転派されたと聞かされている。 

(『春日部の寺院』1996年)

と記しています。 

つまり、当初は、別院(学問所)として創建され、のちにご本尊の「千手観音菩薩像」(伝弘法大師作)が移され、正式な寺院となったと考えられます。

また、山号・寺号の順序が案内板と違うような気がしますが?

本寺を憚ったということですので、『新編武蔵国風土記稿』や須賀氏の表記「華林山慈恩寺最勝院」がやはり正しいのではないでしょうか。そうすると、門前の案内板の表記は??

なお、『寺の宝』は、三代将軍、徳川家光より十五代将軍徳川慶喜までの寺領十五石の御朱印状とのこと。

えっ‼お寺の境内に鳥居⁉︎この先には何が?

f:id:takejiisan:20190326104232j:image

 

【最勝院】

 

この続きは次回に…