かすかべ時遊帳

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講演:「護国寺に残る安倍仲麿塚の碑」の聴講報告

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9月7日(土)、「大和文化会・第5回例会」を聴講しました。

 会場:銀座ブロッサム中央会館

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銀座ブロッサム 中央会館

演題:「護国寺に残る安倍仲麿塚の碑」

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護国寺 仁王門

講師:東野浩之(とうの・ひろゆき)先生

講師プロフィール:

大阪大学及び奈良大学教授を経て2017年奈良大学・大阪大学名誉教授 2010年紫綬褒章受賞 2017年文化功労者

飛鳥・奈良時代への関心から、木簡、金石文などの文字資料や正倉院、法隆寺、唐招提寺など宝物を中心に対外交流史の研究に取り組む。専門分野は日本古代史

講師の東野先生は、史料学の権威で金石文解読の第一人者。

私は、通信制の大学で東野先生がご担当の「史料学概論」という科目を履修したことがあります。その時のテキストは先生の著書『日本古代史料学』(岩波書店)でした。自分にはとても難しく大変苦労した思い出があります。

先生は、「史料学」という学問について

まず、古代史料学を学ぶには、その原文に親しむことが、何より肝心である。そして、史料に慣れてくると、自分なりの解釈をしてみたくなるのが人情である。しかしその場合、史料から考えられることと、史料から判ることは、はっきり区別されなければならない。単に史料からこう考えられるというものではなく、こうしか考えられないことを、傍証を集め証明するのが研究である。史料から何がどこまでいえるかを実感するには、史料から出発する個別の論文を読んでゆくのが一番であろう。

(奈良大学通信教育部発行・サブテキスト 「史料学概論」学習指導より引用)

と書いていらっしゃいました。

そんな思い出深い東野先生のご講演でしたので楽しみにして会場に向かいました。

今回の演題について、先生は「結構マニアックなテーマですが…」とおっしゃっていました。確かに、自分も護国寺に行ったことはありますが、仲麿の碑のことは全く知りませんでした。

講演は、まずは仲麻呂について、


       

         

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阿部仲麻呂 (Wikipedia)

阿部[朝臣]仲麻呂  あべのなかまろ  朝衡

701〜770  遣唐留学生。中務大輔舟守の子。716年(霊亀2)遣唐留学生に選ばれ、717年(養老1年)遣唐使に従って入唐。大学に学び、721年(養老5=開元9年)佐春坊司経局の校書に任官、佐拾遺・左補闕を歴任した。733年(天平5=開元21年)遣唐使と帰国することを願ったが許されず、儀王の友・秘書監・衛尉卿などを経た。753年(天平勝宝5=天宝12年)許されて遣唐使藤原清河一行と帰途についたが、遭難して安南(ヴェトナム)に漂着。翌754年(天平勝宝6年)長安に戻った。その後在唐のまま佐散騎常侍・鎮南都度・安南節度使を歴任、770年(宝亀1年=大歴5年70才で没し、潞州大都督を贈られたが肩書は、光禄大夫・左散騎常侍・御史中丞・北海郡開国公とある。その学才は唐でも聞えたといい、唐の文人王維・李白・趙驊・儲光・包佶らとも親交があった。有名な「天の原ふりさけみれば」の歌は、帰国に際して明州で詠まれたと伝え、他に惜別の二首が残る。唐では朝衡・晁監などと呼ばれた。仲麻呂は仲麿ともかく。

[出典]続紀、東征伝、古今和歌集目録、旧唐書(倭国伝)、新唐書(日本伝)、全唐詩、古今集

(『シルクロード往来人物事典』東大寺教学部著、同朋舎出版、1986)

この『事典』の文章は、先生が執筆されたとのことですが、仲麻呂の生年がその後の研究成果で変わり、73才→70才になったとのことで、今回、70才に修正されていました。

また、「あべのなかまろ」の「あべ」の字が阿部、安倍、安部など、また、「なかまろ」も仲麻呂、仲麿などの表記があることについては、

  • 平安時代初期頃までは、音読み、すなわち発音が重要で漢字は後から当てられため、漢字表記には特に拘らなくてよい。
  • 従って、阿部が正しく安倍は間違いとは一概には言えない。

と言うことなので、当記事でも、いろいろ表記が異なる箇所がありますが、お許しを…

また、姓と名の間に何故「の」の字が入ることについて、

  • 「の」が入る場合は氏名(うじめい)を名乗り、「○○氏の○○」などと表す。「の」が入らない場合は「姓名」を表す。
  • 例えば、「徳川家康」は姓名、氏名を名乗る場合は、「源(みなもと)の家康」などと表す。
  • 従って、仲麻呂の場合は、「あべ氏のなかまろ」と考えられる。

とおっしゃっていました。

あまの原の歌

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

『古今和歌集』に所収されている有名な歌ですね。『百人一首』にもありますが、何故か『万葉集』にはありません。

『古今和歌集』歌番号406(巻九・羇旅歌)の詞書(ことばがき)には、

唐土(もろこし)にて月を見て、よみける

            安倍仲麿

と、また「注」には

この歌は、昔、仲麿を、唐土(もろこし)に物習(ものならい)はしに遣(つか)はしたりけるに、数多(あまた)の年を経(へ)て、え帰(かへ)りもうで来(こ)ざりけるを、この国(くに)より又使(つかひ)まかり至(いた)りけるにたぐひて、もうで来(き)なむとて出(い)で立(た)ちけるに、明州(めいしう)と言ふ所(ところ)の海辺(うみべ)にて、かの国の人、餞別(むまのはなむけ)しけり。夜(よる)に成りて、月のいと面白(おもしろ)くさし出(い)でたりけるを見て、よめるとなむ語(かた)り伝(つた)ふる

(頂いたレジュメから)

  • この歌は、明州での送別の宴で詠まれた歌で、望郷の想いが感じられる有名な歌です。
  • この蘇州での送別は、753年(天平勝宝5)11月15日のことで、この夜は満月だったそうです。
  • 仲麿は、前年(752年)に来唐した遣唐使藤原清河の第一船に搭乗したが、遭難し安南(ヴェトナム)に漂着、その後、唐に戻る。
  • 明州は、現在の中華人民共和国浙江省の寧波市。中国大陸の東端に位置する港湾都市。
  • この歌に詠まれた「三笠山」は、「御葢山」のことで、「若草山」ではありません。山焼きで知られる「若草山」は、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから俗に「三笠山」とも呼ばれ、「御蓋山」と混同されてきました。間違いやすいですよね。もちろん“どら焼き”ではありません。
  • 『東大寺要録』巻四、天地院条には、天地院と言う寺院の所在について「〜略〜御笠山安部氏社之北高山半中〜略〜」とあり、行基が建立したという天地院の南に安部氏の社があったと記されている。
  • 天地院(てんちいん)は、大和国添上郡(奈良県奈良市)の春日山にあった行基が創建に関わったとされる古代寺院。東大寺の前身寺院の一つとされ、現在の二月堂の奥の山上辺りにあったと考えられている。山岳信仰・修験道の行場として鎌倉時代末期頃まで存続した。法蓮寺とも言う。
  • 春日山(かすがやま)は、春日大社の東側にある標高497メートルの花山(はなやま)もしくは西隣の標高283メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称。その南側に安部(安倍)氏の社があったようである。なお、春日大社の社殿は、神護景雲2年(768)の造営で、仲麿の時代には、縄張りを示す注連縄があった。
  • また、遣唐使の派遣の際には、航海の無事を祈って、祭祀が行なわれた。『続日本紀』養老元年(717)に「二月壬申の朔、遣唐使、神祇を葢山(みかさやま)の南に祀る」とあるように、仲麿自身も唐への旅立ちに際し、御葢山に神祇すなわち天の神地の神を祀った。
  • 仲麿が明州での送別の宴で満月を見てこの歌を詠んだのは、仲麿自身に特別な縁がある御葢山にかかる月を思い出し、望郷の念はもちろん航海の無事を祈った神祇のことも思い出し、この歌を詠んだのではないかと思う。

さて、ここからが本題

護国寺に残る安倍仲麿塚の碑

護国寺

護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺院。東京メトロ有楽町線護国寺駅のすぐ上にあります。正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」。

天和元年(1681年)2月7日、第5代将軍徳川綱吉は生母、桂昌院の願いをうけ、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じたとされます。

 

護国寺の公式ホームページはこちら

↓↓

大本山 護国寺

また、こちらのサイトには、有り難いことに境内の地図があります。

↓↓

護国寺 | 車椅子で行く神社仏閣・パワースポットの旅

仲麿堂というお堂の前にあるのが、本講演のテーマの仲麿塚碑です。

幸いこちらのサイトに画像がありました。「筆塚」の次にあります。

↓↓

護国寺その5(東京都文京区) : 好奇心いっぱいこころ旅

仲麿塚碑

護国寺仲麿堂前 仲麿塚銘文 碑陰(裏面)

此碑旧在大和国安倍村久没 

蒿莱無人剥蘚者大正十三年

甲子仲秋移植斯地題詩于其陰     

       箒庵逸人

読み下し文

此の碑、旧大和国安倍邸に在り。久しく

蒿莱(よもぎあかざ)に没し、人の蘚(こけ)を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。

    箒庵逸人(高橋義雄)  

恋闕葵心欲愬誰向東拝

賦望郷詞千秋唯有天辺

月猶照招魂苔字碑     

闕を恋うる葵心(きしん)、誰かに愬(うった)えんと欲す。東に向きて排し賦す、望郷の詞。千秋唯有り、天辺の月。猶(なお)照らす、招魂苔字の碑。

※闕(けつ)=宮廷のこと。

※葵心(きしん)=ひまわりのように心はいつもそちらを向いている。

高橋義雄は、実業家で俳人。俳号は箒庵逸人。そして、彼はその著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)において、この経緯を書いています。長文なので、こちらのサイトをご覧下さい。

↓↓

「箒のあと」280 護国寺仲麿堂縁起 : だすだすだすノート

要約すると

  • 大正の初めに、奈良の道具屋で、高さ四尺、幅二尺四寸、厚さ一尺ほどの自然石に、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけた。
  • その碑は古色蒼然として、一見して七、八百年以上はたったものと思われた。
  • 碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟であることにまったく疑いはなかった。
  • 出どころを聞いてみると、大和国磯城郡安倍村の、安倍文殊堂の前にあったのだという。
  • 安倍村は、安倍一族の発祥の地なので、仲麻呂が唐において物故したのち、招魂碑としてこれをこの地に建てたものにちがいない。
  • そのような古碑が、道具屋の店頭にさらされることになったのは、少し疑問であるが、既に市場に出ている以上、早晩、誰かの手に渡っていくだろうから、心なき人の手に渡らぬ前に、とにかく自分が買い取り、いったん自邸の伽藍洞に引き取っておいた。
  • 仲麻呂は、弘法大師よりも先輩で、しかも年代にはそれほどの違いもなく、また同じように入唐しているという縁もあるので、この碑を護国寺の大師堂前に移建するのは、決して不届きなこと(原文「不倫」)ではないと思う。
  • と同時に、そのままにしておいたのでは、後世になってからその由来がわからなるだろうと考え、はなはだおこがましいことではあったが、碑陰に引(ひき=あんない文)と詩を彫った。

この仲麿塚碑について、東野先生は、

  • 奈良の古物商で入手したと言うことが、なんとも… 趣味の域を出ないのか。
  • 考古学的見地からも7〜8百年前のものとは思えない。いずれにしても、それより後年のもので結構新しいもの。せいぜい江戸時代後期の100年前(大正からみて)くらいのものか?
  • 安倍文殊院の門前に仲麿塚碑があったことはいずれの文献史料にも見当たらない。塚の存在は疑わしい。

と、懐疑的な見解を述べていました。

仲麿塚は無かったのか?

その一方で、本当に仲麿の塚は無かったのか? という疑問も指摘されました。

そこで、『南都名所集』と言う史料を参考に、

  • 江戸時代初期の『南都名所集』と言う地誌の巻9に「仲麿の塚」として、刀を指した人が塚に手を合わせている絵がある。
  • この地誌は、延宝3年(1675)刊行。10巻10冊。太田叙親と村井道弘の共編。大和国内の寺社・名所旧跡を、古歌や著者自作の句を織り交ぜながら、豊富な挿絵とともに紹介。1~6巻までは題号のとおり「南都」を、7巻以降の4冊は奈良を離れ、広く大和国全域の寺社を叙述する。大和地域の歴史・文化研究に欠かせない史料の一つ。

もう一つは『大和名所絵図』巻6と言う史料にも

  • 名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
  • 『大和名所図会』は、寛政3年(1791年)刊行。秋里籬島/著、竹原春朝斎/画

幸い画像がありますので、こちらのサイトをどうぞ

↓↓

安倍文殊院(桜井市) | 歴史文献で訪ねる奈良 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」

  • 安倍文殊院の前の方2箇所に、「みささ記」と記されていて、塚(墓)と思われるがものが描かれている。
  • これは陵(みささぎ=墓)のことなのか? 
  • そして、それは果して誰の塚(墓)なのか? 

と説明されました。とても気になります。

 そして、なんと

仲麿は帰国していた?

えっ!と思いますよね。先生は、二つの史料をあげて説明されました。

1.『新唐書』日本伝

開元の初め(玄宗、元年、元明和銅六年・713)、粟田がまた朝した、その副の朝臣仲麿(阿部仲麻呂)は、―中略―

華を慕って肯(あ)えて去らず、姓名を易えて朝衡(ちょうこう)といい、左補闕・儀王友を歴て、該識するところが多かった。久しくしてすなわち還った。聖武が死んで、女の孝明(孝謙の誤り)が立ち、改元して天平勝宝といった。

 天宝十二載(玄宗、孝謙天平勝宝五年・753)、朝衡がまた入朝した。上元(粛宗、孝謙天平宝字4―5年・760―61)中に、左散騎常侍・安(鎮)南都護に擢(ぬき)んでた。

※粟田とは、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)のこと。

姓は臣であったが、天武天皇13年(684)の「八色の姓」の制定にともない、「朝臣」姓を与えられた。

 

現代語訳 新唐書 日本国伝 その3 | テラさんの万華鏡

 

そこで、

  • 何故、唐の明州で詠まれた歌が古今和歌集に収めらたのか?
  • 仲麿は唐で亡くなったのに、一体誰が歌を伝えたのか?

と言う、極めて素朴な疑問があるそうです。

そして、仲麿はなんと楊貴妃とともに日本に帰ったと言う説まであるとか。さすがにそれはないか…

また、

2.『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四」に、次のように記されています。

―略―

此の国の方を詠(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、

あまのはらふりさけみれはかすがなるみかさの山にいてしつきかも

と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返て語(かたり)けるを聞(きき)て語り伝へたるとや

※仲丸とは、仲麿のこと。

現代訳では

『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」

―略―

そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

こう云って泣いたといいます。此れは、仲丸(仲麿)が、此の国に返って、語ったのを聞いて語り伝えたものだそうです。

私たちがよく知っている仲麿の歌は仲麿が日本に帰朝して仲麿自身が語ったものが語り継がれていると言うことです。びっくり。

そうだよね自分で語ったのなら結構腑に落ちます。

そうすると今までの唐での客死説は覆ってしまいますが…

もちろん何らかの傍証が必要なのは言うまでもありません。

もしかして、それが安倍文殊院前にあったと描かれている「みささ記」と言う塚は仲麿の陵(墓)なのか? 

東野先生は、はっきりと結論を仰らなかった(聞き漏らした?)ので、わかりません。

 

そして、東野先生は、角谷常子編『古代東アジアの文字文化と社会』(臨川書店)、2019/4)と言う本の中で今回のテーマについて、「コラム」をお書きになっています。

そこには何らかの見解が書かれているのでしょうか?

 

すみません、お高いご本なので、読んではいません。奈良大学のこちらのサイトをご覧下さい.

↓↓

奈良大学文学部史学科の角谷常子先生(東洋史)編集の『古代東アジアの文字文化と社会』(臨川書店、2019年)が刊行されます。 | 史学科からのお知らせ | 文学部:史学科 | 学部・大学院 | 奈良大学

こちらも

↓↓

古代東アジアの文字文化と社会―臨川書店

 

講演が終わって

講演終了後、会場の外に出たときに、ちょうどお迎えの車が停車していて、東野先生が出口から歩いていらっしゃるところでした。

失礼とは思いましたが、他の方がお話されたあとに、

  • 先生のご担当科目を受講し、科目試験で一度不合格になったこと、不合格の理由を質問した際、「貴方の解答は、歴史的なことは書いているが、肝心の史料批判はなされていない。よって合格点はあげられません。」と回答頂いたことをお話しました。
  • さらに「お陰さまで、試験の不合格で“史料学”というものが少しわかりました。今でも感謝しております。ありがとうございました。」と、お礼を申し上げました。
  • 東野先生は「そうですか、通信の方ですね。単位は取られたんですね、それは良かった」とおっしゃってお車に乗られました。ちょっぴり胸のつかえがとれました。

 

またまた、長文になってしまい、すみません。

 

講演を聴き、愚考を重ねなんとかこの記事を書きました。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

古代東アジアの文字文化と社会

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