かすかべ時遊帳

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梅田の村社女體神社にある高さ1.8メートルの富士塚⁉

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女体神社の境内は、あくまでも村の鎮守なので、あまり広くはありません。

社殿の隣には、朱い鳥居と小さな富士塚が、そして様々な神さまが祀られています。 

富士塚 

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富士塚の全景

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高さは1.8メートル

富士講 

江戸時代に富士山(3,776メートル)を霊峰と仰ぐ信仰が広まった。これが「富士講」といわれる「代参講」である。「富士講」は戦国時代の行者、長谷川角行(はせがわ・かくぎょう)を伝説上の開祖として、富士山の麓、富士吉田市の浅間神社を本社としている「講」。

江戸時代に流行し、中期以降は、食行身禄(じきぎょう・みろく)・小谷三志(こだに・さんし)らの優れた行者が江戸を中心に広めたため、埼玉・千葉などの関東周辺に広まった。代参の人たちは、先達と称される人に率いられ白装束で吉田口から富士山に登拝したが、それができない講員のために自分たちで富士山に見立てた小丘(築山)を築き、富士浅間神社を勧請した。毎年夏(7月1日)の山開きの頃に、講員はこの小丘に登り、遥かに富士山を拝んだようである。

浜川戸の八幡公園内の富士塚のように、合目を記した本格的なものもある。
この神社にある高さ1.8メートルの「富士塚」は、丸参講によって、明治25年(1892)に築かれたものである。明治25年10月銘角行食行霊神石祠(せきし)あり。(『春日部市史/第6巻/民俗編』)

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丸参講の碑

関連の過去記事

www.takejii.xyz

 

石祠

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左「浅間神社」・右「磐長姫命」

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浅間大神

※浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)

「浅間」を社名に持つ神社。富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社である。 

※木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)

日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。
オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。 

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磐長姫命

磐長姫命(イワナガヒメノミコト)は、オオヤマツ神の娘で木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメミコト)の姉、岩のように堅固で永久不変なことを象徴する女神。美人といわれた妹と違い醜女だったとされています。名前に「磐」の字を当てるのは常磐(ときわ)の意味で、常に青々としてめでたい常盤木などと使うように、そこには生命長久の観念が込められています。岩石といういかにも堅い無骨なイメージがありますが、このことこそがこの神が寿命長久の神とされる所以です。

『古事記』によると天孫ニニギが外見にとらわれ寿命長久の神の姉を選ばなかったことが、天皇の寿命が短くなった原因とのことです。

 

角行食行霊神

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草が生い茂って見えません

ということで、以前撮った写真を

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角行食行霊神

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碑陰(裏面)には明治25年10月銘

※角行(かくぎょう)

天文10年1月15日(1541年2月10日)~正保3年6月3日(1646年7月15日)、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。

※食行身禄 (じきぎょう・みろく)

1671~1733 江戸時代前期-中期の富士講行者。寛文11年(1671)1月17日生まれ。江戸で油商として成功。17歳のとき富士講5世の月行劊忡(げつぎょう・そうじゅう)に入門。加持祈祷中心の村上光清(むらかみ・こうせい)の光清派を批判し、実践倫理を重視する身禄派をおこす。「身禄(弥勒(みろく))の世」の到来を予言し、富士山で断食入定(にゅうじょう)、「烏帽子岩三十一日之巻」を口述し、享保8年(1733)7月17日絶命。63歳。伊勢(三重県)出身。俗名は伊藤伊兵衛。その後、開祖角行とともに、富士講の信者の崇敬を集めた。身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(現埼玉県川口市)の小谷三志の不二道があり、教派神道の実行教、直系は丸山教となって今日に至っている。

※小谷三志(こだに・さんし)

生年: 明和2年12月25日(1766年2月4日)~天保12年9月17日(1841年10月31日)。江戸後期の不二道の開祖。「こたに」ともいう。武蔵国鳩ケ谷(埼玉県)生まれ。本名小谷庄兵衛。文化6(1809)年江戸に出て、富士講2代目教主の伊藤参行に入門、禄行三志の行名をもらう。三志は富士講身禄派の祖食行身禄の教説を日常的な倫理観に高め、天保9(1838)年に、それを「不二道」と称し,京に上り公家や文人と交際してその公認を目指した。富士講の男女平等思想をさらに徹底し、日常生活の服装,労働,性交渉などにおける男女の役割を逆転,「おんながだんなにな」るのを「みろくのみ世」として理想とした。高山たつを伴って、禁制の女人富士登頂を強行した。また,信者の社会事業への労力奉仕も勧め多数の信者を得た。

参考文献:『富士講の研究:江戸庶民の山岳信仰』岩科小一郎/名著出版/2000、『神の民俗誌』宮田登/岩波新書/1979、『朝日日本歴史人物事典』解説(浅野美和子)

 

その他の石祠

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稲荷大明神

稲荷社の右側の石碑を拡大すると

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「悪病除祭」(百万遍)の神饌料「金弐百円」

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碑陰(裏面)には昭和17年9月の銘

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浅間神社・天満宮・猿田彦大神

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「天満宮」は、学問の神、御祭神は菅原道真公

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「猿田彦大神」は、道の神、御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト) 

猿田彦命といえば、天孫降臨神話に登場する神です。そして猿とも天狗ともいわれる怪奇な風貌からある意味、結構人気のある神様です。

そして、

「鼻の長さが七咫(ななあた、約120㌢)もあり、背の丈は七尺(約2メートル)あまりで、身長は七尋(約12.6メートル)に近い。さらに、口と尻は明るく光っていて、

目は八咫鏡(やたのかがみ)の如く丸く大きく、まるで真っ赤な酸漿(ほおずき)のように照り輝いている」、と『日本書紀』一書(あるふみ)の一に描かれています。

そして天孫降臨の際、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天の八衢(やちまた)まで出迎え、先導して日向の高千穂まで導いたとされています。このことから猿田彦命は導き、すなわち道案内の神とされ、後に道祖神として崇められるようになりました。さらには、猿田彦信仰は、道祖神信仰の性にまつわる部分だけを取り出した形で、古代の性器崇拝と結びついた金精様とも結習合し、男女の縁結び、子宝、安産、下の病や性病などに霊験があるとされ、金精様が祀られる神社にはこの猿田彦命が祭神とされることが多いとされています。(参考:『「日本の神社」がよくわかる本』戸部民夫、PHP研究所、2004/1/21)

 

いかがでしたか?

 

身近な村の鎮守にもいろいろ興味深いものがありますね。

 

時間があれば、お近くの神社に行ってみませんか。きっと新しい発見があると思います。

 

続く…