かすかべ時遊帳

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講演:「藤原宮跡の幢幡遺構が語るもの―文物の儀ここに備われり―」の聴講報告

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7月28日(日)、猛暑の中、大和文化会・第4回例会を聴講しました。

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会場はいつもの

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演題:「藤原宮の幢播遺構が語るもの―文物の儀ここに備われり―」

講師:奈良文化財研究所  所長  松村恵司(まつむらけいじ)先生 

講師プロフィール:

ご専門は古代律令国家形成期の考古学的研究

今から3年前の2016年夏、藤原宮の発掘調査の際、大極殿院前の南門の前から、大宝元年(701)の元日朝賀の儀式の際に撞播(どうばん)を立てたと思われる柱跡の遺構が7箇所(本)見つかりました。

藤原京は、いわゆる大和三山に囲まれ、その一つ耳成山の南麓に造営されていた(694〜710)とされる京(みやこ)です。

藤原宮跡については、橿原市のサイトをどうぞ

↓↓

橿原市/藤原宮跡

今回は、藤原宮跡で見つかった「撞播遺構」についての講演でした。

まずは、

『続日本紀』の記事

正月元日の朝賀の儀式を伝えている『続日本紀』文武天皇 大宝元年(701)の記事

「大宝元年春正月乙猪の朔、天皇、大極殿に御(おは)しまして朝(ちょう)を受けたまふ。その儀、正門に烏形(うけい)の幢(はた)を樹(た)つ。左は日像・青竜・朱雀の幡(はた)、右は月像・玄武・白虎の幡(はた)なり。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物の儀、是(ここ)に備れり。」

をもとに本日の講演がスタート。

(どう)とは、竿の先端に、種々に彩色した布でつくった旗をつけたもので、軍陣などの指揮や、儀式に用いた。「はたほこ」とも。幡(ばん)は、旗やのぼりのことで、通常は「幢幡」と熟語で用いられます。

ところで、「撞幡」と言われても、すぐにイメージを想い浮かべることができませんでした。

そこで、

今回の講師の奈良文化財研究所の松村所長のブログ「なぶんけんブログ」で、幢幡の姿かたちがわかりました。

それがこちら

↓↓

藤原宮の幢幡遺構を読み解く - なぶんけんブログ

そして、こちらも 

↓↓

平城宮第一次大極殿院における幢旗遺構の発見と奈文研の継続調査 - なぶんけんブログ

本日の講演は、ほぼこのブログに沿った内容でした。

特に興味深くお聴きしたのは、「陰陽五行思想」の説明の次の部分。

大相撲の吊屋根(つりやね)の四隅にある房は、北東に青房(水・青竜)、南東に赤房(火・朱雀)、南西に白房(金・白虎)、北西に黒房(水・玄武)が配され、藤原宮の四神播と同じ配置をとっている。これはかつて土俵に屋根が架かっており、その屋根を支える4本の柱に四神を表す4色の布が巻かれていたことに由来すると言われている。また、大相撲の正面が北であることにも注意を払う必要がある。

現在の大相撲の世界にも、藤原宮の幢播に見られた陰陽五行思想が強く息づいている。

確かに、大相撲中継などでよく「青房下」とか言っていますね。「正面」は「北」、そうすると「向こう正面」は「南」なんですね。初めて知りました。これから大相撲中継の際には、これらを参考によく観てみようと思います。

 

最後に、五行の配当表によると中央に配置される「土」について、

土の方位は中央、動物は黃麟、色は皇帝の黄色にあたるとされる。大宝元年の元日朝賀の際に掲げられた幢播は烏形の幢と記され、発掘遺構の中では唯一藤原宮の中軸線上にあり、7本の幢播の中では最も臣下に近い(天皇から見て)南端に位置している。

この烏形の幢、文安御即位調度図では三本足の銅烏幢とされているが、平安時代の史料には、これを八咫烏(やたがらす)と記したものや太陽を象徴する三足烏(さんそくう)としたものがあり、今も解釈が定まりません。7本の幢幡の中では最も重要な幢ですが、この烏形の幢が一体何を象徴するのか...。ぜひ皆さんもこの謎解きに挑戦してみませんか。

と、謎掛けの形で松村先生のブログは結ばれています。

そして、先生は、今回の講演では、

八咫烏は足の爪を広げている形をしているので、撞に描かれている鳥とは違うと思う。撞に描かれているのは、八咫烏ではなく、間違いなく三足烏である。

と仰っていました。先生の結論は「三足烏」でした。

また、「三足烏」については、

  • 中国神話には三本足の烏は「太陽の化身」と
  • 楚辞には、「白烏、金烏、火烏」と
  • 延喜式(927年)には、「赤烏、三足、日之精也」とある。
  • 烏形の撞は、天照大神の子孫「日の御子」の象徴といえる。
  • 皇位継承の正統性と国家統治の正当性を保証するもの。
  • 江戸時代の第121代孝明天皇の即位の際の礼服の肩に三足烏が描かれている。

とも。

 

皇位継承の正統性と国家統治の正当性

ところで、大宝元年当時、天皇は第42代天皇、文武天皇(もんむてんのう)です。

文武天皇は、草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男として生まれ、母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父・草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずでしたが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から「皇子」としての扱いを受けていたと考えられています。

軽皇子、すなわち後の文武天皇は、父の草壁皇子が天皇の皇位を継ぐ前に亡くなっているので、皇位継承についてその正統性を巡っていろいろ議論があったようですが、祖母持統天皇の後押しの結果、第42代天皇として皇位につきました。

 

松村先生の結論は、

文武天皇の皇位継承の正統性と国家統治の正当性を公に印象づける意味からも、藤原宮の中央に立てられた三足烏形の幢は、藤原宮の大極殿に出御した天皇(文武天皇)が日神の御子であることを誇示し、皇位の正統性と国家統治の正当性を示す装置であったと考えられます。

 そして、大宝律令(たいほうりつりょう、大宝元年秋に完成)の完成を目前して、天皇を中心とした官僚組織や行政組織の整備により国家統治システムが整い、律令国家としての体制の確立を「文物の儀、是(ここ)に備えれり」と高らかに宣言・誇示したのです。

とまとめていました。

 

松村先生は、奈良文化財研究所の「なぶんけんブログ」でいろいろお書きになっていますので、ご興味のある方はお読みください。とても面白いですよ。

 

今回、松村先生の講演聴講と先生の「なぶんけんブログ」を参考に記事を書きました。他人の何とかで相撲を取る形になりましたが、どうぞお許し下さい。