かすかべ時遊帳

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粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」は新方荘惣社⁉

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粕壁宿には、春日部八幡神社、東八幡神社、元新宿の八幡神社と八幡神社が三社あります。

今回は、その内の一社、粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」のこと。

春日部八幡神社

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春日部八幡神社参道

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春日部八幡神社

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境内の説明板

 新編武蔵風土記稿にも粕壁宿の鎮守として掲載されている春日部八幡神社は、元弘年中(1331〜1334)この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものといわれている。この神神社は、春日部氏の領地であった新方領(にいがたりょう)の総鎮守であり、その鳥居には「新方荘惣社」の額が掲げられている。天保十一年(1840)の氏子連名帳には、現在の久喜市、杉戸町、白岡町、宮代町を含む五十二ヵ村の氏子三千六十五名を記録している。

 本殿後方の高地にある旧本殿は、茅葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物として春日部市指定文化財となっている。

 参道入口の左側には、嘉永六年(1853)に粕壁宿の名主関根孝煕らが建立した在原業平(ありわらのなりひら)の故事とこの八幡神社の由緒を伝える石碑がある。

 また、参道中央の大イチョウには、元弘(1331〜1334)年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに成長し、参詣人を驚かせたという伝説がある。

 この神社の境内につづく稲荷神社には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ八・ニメートル、周囲ニ百メートルにも及ぶ、この辺りでは最も大きい富士塚がある。この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた富士講による富士信仰の対象として築かれたもので、弘化ニ年(1845)に行われた修復工事には、粕壁宿はもとより、幸手領、岩槻領からも大勢の信者が集まったと記録されている。毎年七月一日の初山には、市内各地より赤子を抱いた母親が、子育ての無事を祈ってこの富士塚を訪れている。

  昭和六十一年三月 

          春日部市

この説明板は、設置後33年も経っていますので、少し補足を。

白岡町は現在の白岡市。また、市内で最も古い建造物とされた旧本殿は、平成7年11月5日、不審火(放火?)により、残念ながら焼失してしまいした。

また、元弘年中と言えば、元弘元年(1331)後醍醐天皇によって起こされた政変。いわゆる「元弘の変」があったときです。

「元弘の変」は、鎌倉幕府滅亡の直接のきっかけとなったともいわれています。そのような時に鎌倉から八幡神を勧請するとは、よほど鎌倉幕府に忠誠を誓う必要があったのか、それとも戦に備えて八幡神に頼ったのか……

わかりません。

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郷社  八幡神社

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安政5年(1858)再建の鳥居 

安政5年と言えば、いわゆる「安政の大獄」があった年です。なお、この鳥居には「新方荘惣社」と刻まれた額があるとのことですが、いつ見ても額の文字はよく見えません。

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春日部八幡神社御社殿御末社案内図

ご祭神

  • 誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
  • 息長足姫尊(おきながたらひめのみこと)(神功皇后)
  • 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
  • 豊受姫命(とようけひめのみこと) 

の四柱。

武内宿禰命は、景行天皇から、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇そして仁徳天皇までの5代の天皇に仕えた忠臣とされ、300年以上も生きたと言われています。三遊亭金馬師匠も朝鮮半島遠征から帰還した神功皇后を宇佐で出迎えた、と。いくら長命と言われも、300年とは?

それぞれの天皇に仕え、似たような事績を残した何人かの人物を、一人の人物に統合して武内宿禰像をつくりあげたのでは、とも考えられます。

なお、この武内宿禰は、春日部氏の祖先、紀氏の祖(おや)ともいわれています。そのため、春日部にある八幡神社には必ず祀ってあるとか。

豊受姫命の神名、「豊受」の「ウケ」とは食物のことで、食物・穀物を司る女神で伊勢神宮外宮の神様で知られています。天照大神の食を担った神とも。

『新編武蔵風土記稿』には、 

宿の鎮守なり、元禄年中、別当玉蔵院の住僧の書せし縁起に、昔元弘中新田左中将義貞の家臣春日部治部少輔時賢なるもの当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為則鶴岡を写してここに勧請すと云、因って昔は新方の惣鎮守にて社宇荘厳を尽くせしに其後遥かの星霜を歴て屡盛衰在りしが、今は又社殿備り頗る旧観に復す。末社弁天云々

と記されている。 

『武蔵国郡村誌』には、 

八幡社「郷社」字浜川戸にあり、近郷数十ヶ村の総鎮守なり、誉田別尊を祭る。祭日九月十九日。相伝ふ元弘中新田左中将の家臣春日部治部少輔時賢なる者当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為鶴岡に擬して、此処に勧請すと云域内大杉古松等繁茂せり就中社前にある大銀杏二樹(元は三樹ありしが一本は近古枯れたりと云ふ)は鎌倉より飛び来ると云ヘり而して社宇は頗る荘厳を尽くせり。

ご神木のイチョウのことも記されています。古くは3本のイチョウの木があったようです。 

また、前出の説明板にある

『春日部八幡宮氏子連名帳』【八幡神社所蔵文書】には、

武蔵国埼玉郡新方庄八幡宮は、鎌倉大将軍旗下の大名春日部氏世々に居城の域地古隅田川を後にして大場沼・谷原沼を前に当たり一座の砂山杉松の古木鬱蒼たる処に鎮座ましまし新方四十余郷の宗祠にして城主の氏神と尊宗し奉る神社なり、境内除地壱町歩余其外免地の末社四方に羅列し毎年六月角力会・八月放生会・九月の神事月々朔望の神楽連綿として今に相続す。

6月には奉納相撲が、また8月には放生会が行なわれていたようです。

なお、放生会(ほうじようえ)とは、仏教の殺生戒(五戒)の思想に基づいて行われる鳥獣や魚を放つ宗教儀式。全国の寺院のほか、八幡神(八幡信仰)を祀る神社を中心に行われており、宇佐八幡宮や石清水八幡宮などの放生会はよく知られています。

奥の院

以前、市の指定文化財であった奥の院(旧本殿)は、前述の通り、平成7年11月に不審火により焼失しましたが、翌年(平成8年)に地域の人々の力により、復興・再建されました。

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奥の院参拝通路
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さらに…

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到着……

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焼失前の社名碑

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奥の院

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奥の院復興記念碑

 

春日部八幡神社の公式サイト

↓↓

春日部八幡神社 

 

参考・引用:

  • ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著  1996
  • 『春日部市の文化財』春日部市教育委員会  1979.12.1