かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

古河とかすかべとは同じ…⁉

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JR古河駅の西口を出て、駅前通りを真直ぐ行くとその辺りが日光街道(日光道中)9番目の宿場町古河宿です。宿場町といっても、古河は城下町でしたので、かすかべとはかなり違います。

古河宿

日光街道を少し北に上ると、

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日光街道古河宿道標 

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右筑波道 左日光道 

昔の城下町は道が防御の関係で道がクランク状に直角に曲がるようにつくられています。日光街道は、この場所で道が分かれ、左折していたようです。

なお、この場所は、街歩きで古河駅に向う(帰る)途中、最後に通る場所とのことですが、記事では最初に。 

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説明板

日光街道古河宿道標

古河市指定文化財・有形民俗文化財

    昭和五十二年四月四日指定

 寛永十三年(一六三六)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道街道整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。

 日光街道は江戸から古河に至り、二丁目で突き当り、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。

 この道標は、文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか十一名によつて建てられたもので、常夜灯型式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・悟岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫である。

   平成二十年一月

        古河市教育委員会

※小山霞外(おやま・かがい)は、江戸時代後期の著名な書家(1785−1864)、水戸藩主の徳川斉昭もその書を愛蔵したといわれています。

道標の側面には小山霞外・小・孫の名が刻んであります。なお、右筑波道と刻まれているそうですが、恥ずかしながら、どうしてもそう読めませんでした。

この道標は、建立当時からこの場所にあるようです。高さもあり、大変立派な道標です。

そして、この場所から、日光街道を南に下ると、銀行の脇には、

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高札場跡 脇の木箱にはスタンプラリーのスタンプが入っているようです。

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説明板

高札場と本陣

  日光街道の宿場町であった古河宿の中心は、もと二丁目と呼んだこの辺りであった。文化四年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋(といや・とんや)のうち一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。

   高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリスタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。

 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府関係のとき高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は、百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣幕府のちに他家に移っている。

 問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり、人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人ことで、他にも三〜四軒あって、交代で事にあたっていた。

 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手(かねのて)二丁目)、横町(野木町)と続き、道幅は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛(めしもり)女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

 平成元年三月 古河市教育委員会

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道路の向かい側は城下本陣跡、建物がないのはかすかべと同じですが、「城下」との文字も。

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案内板 右折して750m先・古河城追手門跡
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側面の説明文は、

公方の城  古河城

  古河城は、古河公方の御座所だった中世、そして、将軍の日光社参における御泊城となった近世というように、歴史上、公方様の城というべき特殊な性格を帯びた存在であった。

   殊に、室町時代の古河城は、政治・軍事両面の重要性から、鎌倉公方の北関東における拠点と位置付けられており、十五世紀半ばになると、「享徳の乱」を契機に、鎌倉から古河に移座した足利成氏の居城として整備されていく。そして、初代成氏以降、古河城は、古河公方足利氏の五代一三○年にわたる根城として、波乱に富む関東戦国史に欠くことのできない存在となる。

  江戸期以降は、幕府大老の土井利勝、堀田正俊を筆頭に、閣老級の譜代大名たちが城主となり、近世城郭としての整備が進められ、南北一八〇〇㍍、東西五五〇㍍という関東有数の巨大城郭に変貌した。

  明治六年の廃城令と同四三年に開始された渡良瀬川改修工事によって終焉を迎えた古河城であるが、現在も出城跡(歴史博物館)や獅子ヶ崎に土塁や水堀などを含む遺構確認することができる。

※享徳の乱とは、1454年(享徳3)より1482年(文明14)まで続いた関東の大乱。

渡良瀬遊水地と古河城の消滅

明治期末、本丸など古河城の主要部分は、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的に大規模な河川改修工事が行なわれ、曲輪は破壊され、堀は埋め立てられるなど城跡の大部分は破壊されてしまいました。今は、堤防や河川敷になっています。

また、渡良瀬遊水地は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に設けられた遊水池だともいわれています。そして、渡良瀬遊水池(わたらせゆうすいち)を設けるため、旧古河藩領の谷中村が廃村になる(させられた)という負の歴史もありました。

なお、その渡良瀬遊水地は、本州最大の湿地であり、希少な植物も多いことから、平成24年(2012)7月3日に、ラムサール条約の登録湿地になりました。

今は、三国橋と新三国橋のほぼ中間付近に古河城本丸跡地と記された石碑と説明板が残るのみです。

本丸から見える景色はどうだったのでしようか。眼前には利根川や渡良瀬川が一望できる素晴らしい風景がきっと広がっていたのでしようね。

松本清張の小説の舞台にも

話は飛びますが、渡良瀬遊水地と言えば、松本清張の遺作『神々の乱心』を思い出します。埼玉県側だったと思いますが、殺人事件の遺体が発見された場所でした。その小説には古河公方の末裔と称する栃木県佐野市に住む元女官(元喜連川典侍)も登場します。時代設定は、昭和初期(昭和8年)。

小説には、主人公(埼玉県特高警察の警察官・警部)が事件の捜査で古河駅から橋を渡って事件現場に行く情景が書かれています。主人公が橋を渡り、対岸(埼玉県)の向古河(むこうこが)という集落の堤の上に立った情景を、清張は「堤の上に立って吉屋(警部)は息がとまる思いだった。果てしない地平線の広がりである。二分するは雲に塞がれた空と、水に草の混じる地。それ以外にはなにもない。」(松本清張著『神々の乱心』文春文庫、2000.1.10)と書いています。

荒涼たる景色だったようですね。逆に、古河側からも同じような風景が見えたのでしょうか。

 

参考までに、「古河城」については、古河市観光協会」のサイトをご覧ください。

↓↓

関東有数の城郭 古河城 | こがナビ|古河市観光協会

 

実は、

古河とかすかべは同じ領地内だった

平成時代末期から鎌倉時代の初め、古河は、下河辺氏の「下河辺荘」という、"かすかべ"と同じ荘園に属していました。つまり同じ領地内だったということです。かすかべが下河辺荘であったことは、認識していましたが、古河もそうだとは恥ずかしながら、知りませんでした。全くの不勉強。

下河辺荘は下総国葛飾郡にあった荘園であり、現在の千葉県北西部から埼玉県東部にかけて位置した。〜中略〜

中近世の利根川東遷事業以前のこの地域は利根川(大落古利根川)・荒川・渡良瀬川・太日河・隅田川(古隅田川)が入り組んだ地域であり、これらを介した水運が盛んであった。荘内には前林・河妻・赤岩・春日部・桜井の5郷と平野村があったことが知られている。〜中略〜

その荘域が広大であったうえ、戦国時代以降の河川の流路変更によって、現在は、茨城県古河市・境町・五霞町・坂東市、千葉県野田市・流山市、埼玉県加須市・栗橋町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・松伏町・吉川市・三郷市の各市町にまたがる地域に及ぶ。当時、上流域(古河市周辺)を「上方(野方)」、荘内東部域(栗橋町から吉川市、三郷町に及ぶ地域)を「下方(河辺)」、大落古利根川と古隅田川と元荒川に挟まれた地域を「新方」に三分されていた。

引用:(『フリー百科事典 ウイキペディア日本語版』最終更新 2019年4月14日(木)  14:21 UTC  URL:https://ja.wikipedia.org/

実際、かすかべは「新方領」と呼ばれていました。新方領の総鎮守であった「春日部八幡神社」の鳥居には「新方荘惣社」という額が今も掛かっています(いずれ訪れる予定)。

 

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ここで右に曲がります。
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案内板の側面には、

雪の殿さま、土井家第11代当主、土井利位(どいとしつら、1789〜1848)の説明がありました。 

利良は、我が国で雪の結晶を顕微鏡で観察したといわれています。後に徳川幕府の大阪城代・京都所司代・江戸西之丸老中(その後老中も)などを努め、大阪城代在任中には、大塩平八郎の鎮圧したとのことです。

 

古河市の公式サイトも参考に

↓↓

古河市と雪華(せっか)/古河市公式ホームページ

 

今回、古河はとても魅力的な町であることがわかりました。城下町は歴史に深みがありますね。

 

いずれ続きを…

 

 

松本清張著【神々の乱心】

神々の乱心 上 (文春文庫)

神々の乱心 上 (文春文庫)

 
神々の乱心 下 (文春文庫)

神々の乱心 下 (文春文庫)