かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

樋堀のお大師さんは関東三大師だった⁉

スポンサーリンク

関東三大師と関東の三大師

通常、大師とは弘法大師のことを指し、関東三大師とは弘法大師を祀る関東厄除け三大師を指すが、関東の三大師という場合は、弘法大師ではなく厄除け大師とも呼ばれる元三大師を祀る寺院を指す場合も多い。(wikipedia)

関東厄除け三大師

関東厄除け三大師とは、一般的に真言宗の宗祖弘法大師(空海)を祀る寺院(真言宗)のうち、次の三寺院を指すと言われています。

  • 川崎大師(かわさきだいし)・神奈川県川崎市・金剛山金乗院平間寺(こんごうさん・きんじよういん・へいけんじ)
  • 西新井大師(にしあらいだいし)・東京都足立区・五智山遍照院總持寺(ごちさん・へんじょういん・そうじじ)
  • 観福寺大師堂(かんぷくじたいしどう)・千葉県香取市・妙光山蓮華院觀福寺(みょうこうさん・れんげいんかんぷくじ)

そう言えば、「佐野厄除け大師」も良く知られていますね。正月には、テレビコマーシャルも流れます。

でも、この「佐野厄除け大師」は、「関東三大師」ではなく、「関東“の”三大師」だそうです?? 

少しややっこしいのですが、「の」があるのと無いのとでは違うことをはじめて知りました。

関東の三大師

関東“の”三大師という場合は、厄除け大師とも呼ばれる元三大師(良源)を祀る寺院(天台宗)のうち次の三寺を指す場合が多く、「関東厄除け三大師」とは全く別なものだそうです。

  • 佐野厄除け大師(さのやくよけだいし)・栃木県佐野市・春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがおかやま・てんぼうりんいん・そうしゅうかんじ)
  • 青柳大師(あおやぎだいし)・群馬県前橋市・青柳山談義堂院龍蔵寺(せいりゅうさん・だんぎどういん・りゅうぞうじ)
  • 川越大師(かわごえだいし)・埼玉県川越市・星野山無量寿寺喜多院(せいやさん・むりようじゅじ・きたいん)。

※元三大師:良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日)〜 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。(wikipedia)

そして、大師信仰の伝承を持つ場所が“かすかべ”にもあります。

ということで、今回は「樋堀大師」のこと。

樋堀大師

春日部市立東中学校の西方、県道宝珠花線から少し左に入ったところに大師堂が建っています。

f:id:takejiisan:20190601104258j:image

厄除樋堀大師堂 これが目印
f:id:takejiisan:20190601104301j:image

少し入ると

f:id:takejiisan:20190601104833j:image

さらに進むと大きな案内板が見えます。
f:id:takejiisan:20190601104830j:image

厄除樋堀大師

f:id:takejiisan:20190601104952j:image

この場所には、その昔、新義真言宗最勝院の末寺で「白雲山正福寺」と云う寺院がありました。また、前回記事にした白山神社もかつてはこの境内にあったとされています。現在は、樋堀地区集会所と当時からの墓地、そして大師堂が残っています。

f:id:takejiisan:20190601105018j:image

厄除樋堀大師由来

昔この地に新義真*ママ宗最勝院の末寺で白雲山正福寺という寺があった。この正福寺に文政の頃(一八一八年)一人の旅僧が弘法大師とほか二幅の画像を描いた掛軸を背負って来訪し数日宿泊したという。

 旅僧が寺を去ろうとすると、急に足腰が痛み出発できなくなったという。再び出発しようとすると、またも足腰がおもうようにならなかった。旅僧は「これはきっと大師様がこの地にとどまりたいという思召のためではないか」と悟りこの三幅の掛軸を正福寺に残し旅に出ることにしたところ何の異状もなく旅立ちすることができたたという。

 この大師様については、古老からの話や本寺の最勝院にも語り伝えられているところによると、樋堀大師は西新井、川崎大師と共に関東三大師と云われていることについて、首の大師を樋堀、胴の大師を西新井、手足の大師を川崎と、いわれている。

 なお、正福寺は明治の初期無住寺であったため廃仏き釈令によって廃寺となったが地区民はこの建物を大師堂と改め大師様を祀り護持してきた。その後大師堂は関東大震災により倒壊するなどしたが二回再建された。

現在の建物は昭和六十一年十一月(西暦一九八六年)に再建され現在に至っている。

 なお、厄除大師祭は毎年四月二十一日にお開帳されている。

   平成六年八月吉日 建立

大変立派な案内板ですが、「新義真宗」とあるのは「新義真言宗」のことでしょうね。

それはそれとして、この案内板には弘法大師とほか二幅の画像となっていますが、ほかに釈迦如来の画像があったそうです。

これら画像の掛軸は今も存在している檀家の家に保存されていて、弘法大師の画像は縦74㌢・横34㌢の絹地に描かれており、釈迦如来の画像は縦130㌢・横69㌢の絹地に描かれているそうです。なお、釈迦如来の画像は雪舟筆とも云われているそうで(弘法大師の画像は筆者不詳)、掛軸を納めてある箱の蓋には「文政三辰年(1820)八月朔日調製  正福寺」と記されているとのこと。

「ふるさと春日部『かすかべの歴史余話』須賀芳郎/著 1977年~」によると、以前は、毎年4月8日には釈迦如来画像の掛軸を、同4月21日には弘法大師画像の掛軸を掲げて御開帳が行なわれていたようですが、現在は、厄除大師祭として4月21日のみご開帳されているようです。

 

そしてこの樋堀大師は、厄除大師として多くの参詣人を集めていたと云い伝えられています。

西新井大師にも川崎大師にも参詣したことはありますが、この樋堀大師が関東三大師とは全く知りませんでした。

首(かしら)の大師と言われていたそうですが、胴の大師が西新井大師、手足の大師が川崎大師と言われてもそれぞれの大師でそのことを聞いたことがありません。「う〜ん」としか言えません。

また、案内板の伝説の部分についても??という感じですが、そう言えば、浅草の観音様は川の中から聖観音像が、川崎大師は海中から弘法大師像が網に掛かって、という伝説があります。恐らく多くの社寺には同じような伝説が残っていると思いますので、ここはあくまで伝説ということでお許しください。

なお、旅の僧とは、布教のために旅をしていた高野聖のような僧だったかも知れませんね。わかりません。

客坊・宿坊?

5月31日、たまたま居合わせた墓石工事の方にお話を伺ったところ、

「昔の正福寺は寺というよりもむしろ『坊』のような所だったと聞いている。また、大師堂の隣の墓地は共同墓地となっており、それぞれ檀家の寺院を持っている。キリスト教の墓石もある」とのことでした(実際ありました)。

また、「この地域(樋堀)には、古くは源平合戦で敗れた平家、武田家などの落ち武者?が土着して農家になった家もあると聞いている」とも仰っていました。真偽のほどはわかりません。

※坊とは、僧侶の住まいのこと。客坊、宿坊など。

f:id:takejiisan:20190601105351j:image

ということは、昔の正福寺は住職のいない最勝院の末寺、というよりもむしろ客坊・宿坊のような所だったのかも知れません。そのため、数日間も宿泊・逗留できたのではないでしょうか。そして、その間、地域の布教活動を行なっていた、と考えるほうが自然です。そして、大師信仰のために伝説も残した、と。(あくまでも個人的な考えですが)

 

大正12年の関東大震災の被害による倒壊にも拘らず地域の方々の力で短期間で大師堂が再建されたことを思うと、この地域の人々の篤い信仰心を感じさせます。

 

境内の片隅には、関東大震災の被災と大師堂再建の記念碑があります。

カビがひどくて判読はかなり大変でしたが、なんとか。

f:id:takejiisan:20190601105132j:image

大師堂建築記念碑

遠ク古ヨリ祖先傅来ノ朝夕共ニ守護シテ崇拝スル當字大師堂モ大正拾貳年九月一日 古今未曽有ノ関東大震災ニテ流石 大帝都モ武蔵原野ト化シタル時  當大師モ不幸ニシテ其ノ難ニアヒ倒壊スルノ止ムナキニ至リ惨々タル状態ト化ス 吾々信者ハ失望其ノ極ニ達シ如何共スル不能ルニ至ル内外恐ルベシ被害ノ甚大ニシテ進退殊ニ極マル此時ニ当リ裏面記載◻︎建築世話人ハ奮然シテ私ヲ不顧 是◻︎◻︎再建ヲ計リ幾多犠牲ノ拂ヒ努力以ニ最後ノ目的ヲ達スルニ一大決定ヲ以テ邁進シ遂ニ協議ニ確然トシテ成立ス 同時ニ工事ニ着手ス瞬時ニヲイテ信者各位熟成ナル同情ニヨリ奉納者モ続出シ為ニ豫想外ノ額ニ達シ短月日ニシテ落成式ヲ挙グ是レ偏ニ大師ノ霊験ナリ 区民並ニ建築世話人ノ一心協力全力ヲ傾注シタル結果ニシテ遂ニ其功ヲ奉シタル次第ナリ 依テ同志ハ是レヲ将来ニ記念スベク此ノ碑ヲ由因ナリ

   昭和五年一月吉日 建之

◻︎はカビがひどくて判読不能の箇所、また、他所にも少しあやしい箇所もありますが、ご容赦ください。なお、裏面は全く読めません。

f:id:takejiisan:20190601105203j:image

f:id:takejiisan:20190601105240j:image

鰐口と梵鐘

f:id:takejiisan:20190601105224j:image

鰐口

大師堂には樋堀村の村民が奉納した鰐口が残っています。直径三六㌢の小形なものです。

肉眼では確認できませんでしたが、「厄除弘法大師当村中嘉永六癸丑年(1853)九月吉祥日  武州樋堀村  正福寺住法印鏡代」の銘が刻まれているそうです。

f:id:takejiisan:20190601105307j:image

梵鐘

f:id:takejiisan:20190601105725j:image

弘法大師像

f:id:takejiisan:20190601105832j:image

水子、子育地蔵尊

f:id:takejiisan:20190601110046j:image

手水鉢の蛇口部分だけが古い

 

いずれにしても、樋堀大師は昔から厄除大師として多くの参詣人を集めており、戦前までは御開帳の日には樋堀地内に屋台、露店、見世物小屋等が出て大変な賑いであったといわれています。

なお、現在は、樋堀の町内会役員等によって御開帳は厄除大師祭として行なわれています。来年の4月には忘れずに行こうと思います。


【樋堀大師】