かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

気になる「山中千手観音堂」は江戸時代の俳人増田眠牛ゆかりの観音堂

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   公園橋通りとかすかべ大通り(旧日光道中)の交差点にある信用金庫の向かい側に「山中千手観音堂」という小さなお堂があります。

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 江戸時代の俳諧師増田眠牛(ますだ・みんぎゅう)ゆかりの観音堂。屋根の上には、宝珠それとも土瓶?

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「山中千手観音堂」

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山中千手観音の由来

 山中観音は、もとは粕壁の山中というところに祀られ、多くの人々に親しまれていました。 観音様の由来は、江戸時代の俳諧師増田眠牛によります。当時、眠牛は千手観音を背負ってこの地方を行脚していました。そして、粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになり、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、眠牛はこの地で一生を終えました。眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰しました。大正時代までは、縁日に人々が集まり講を開いていました。

       平成五年四月吉日

春日部市史には

 宝暦のころ、粕壁宿に六部(ろくぶ)の姿で現われそのまま米問屋伊勢平に寄寓した増田眠牛は、談林派系統の江戸座の流れを汲む俳人で匍匐庵(ほふくあん)と号した。日光道中の宿場町・在郷町として発展しつつあった粕壁宿の商人や周辺農村の村役人層などの支持者を得て活躍したものと見られるが、史料的に確認できる事績は少ない。春日部駅東口の側(粕壁東一丁目三番)に現存する山中観音は貴重な遺跡である。この堂は、伊勢平に代わり眠牛の世話をしていた醤油醸造家清水家(やまご)が、眠牛の菩提を弔うために建立したものである(『春日部市の文化財』)。没年は、堂前の墓石から明和八年(1771)三月七日、享年六三歳であったことがわかる。また、観音堂の本尊は眠牛が携えてきたという千手観音の画像で、托鉢に用いた鉢やあかざの杖などの遺品も残る。

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『春日部市史』第六巻 通史編 近世 第九章 文化と生活 第二節 農村文化の展開(平成6年9月1日、春日部市教育委員会編)

 宝暦年間は1751−64年。芭蕉が当地に泊まった頃から60〜70年後の時代。 

六部とは

  もともとは、法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には、諸国の寺社に参詣する巡礼または、遊行(ゆぎよう)の聖(ひじり)。白衣に手甲・脚絆きやはん・草鞋(わらじ)がけ、背には阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。(スーパー大辞林)

 そう言えば、「花見の仇討」と言う落語に「六部姿」と言うのが出てきます。そして、落ちにも「ろくぶ」という言葉が使われています。 

 埼玉県内の近世俳人、俳諧史に詳しい俳人の小林甲子男氏(1925―2010)は、 

増田眠牛について

 眠牛の俳系は文化二年の谷素外編『西山家連俳系譜』によれば、

梅翁

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西鶴

 |

才麿―佳風

     |

          逸志―旧室

      |         

       佐簾―二世佐簾―眠牛 

 私(小林)がこの眠牛の句を最初に確認したのは、宝暦ニ年の『名月句集』に見える。

 三月の夜は明に鳧 けふの月   眠牛

 ※鳧=けり

さらに同じ年『太山樒』にも一句。これは上野富岡の人、雲郎の妻の追悼句集であり、鴻巣の柳几の句もある。眠牛は各地を歩いて多くの俳人たちと交遊していたことがわかる。

宝暦七年の『歳月帳』(祇貞)には、

  恋ならで またるるものは 厄払  眠牛

明和二年の『歳旦』(吾山)には

  年守る 火鉢に酒の 匂ひかな  眠牛

春日部市備後の石井家には眠牛の短冊が一枚残っている。

  話し手もなくふけたり 今日の月  眠牛

眠牛は明和八年に没した。墓石は市内山中観音堂の入り口に建っている。

  かかれぬぞ もう命げのつくつくし   眠牛

という辞世の句とともに、

       諦誉華岳眠牛居士

       明和八年三月七日

と記述しています。

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元の「山中千手観音堂」

 『埼玉史談』第三十八巻 第三号 通巻ニニ七号 「近世・春日部の俳諧」(平成三年十月一日、埼玉県郷土文化会)

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近くの建物に描かれているシャツターアート

「米問屋」でなく「八百屋」になっています? 

放火事件

    平成26年(2014).4.9の午後11時頃、放火されるという事件がありましたが、幸い、火事に気づいた近所の方の素早い対応で、堂内の床が少し焦げた程度ですみました。約250年もの長い間守り続けてきた貴重なお堂が焼失を免れて良かったです。

守られた観音堂と慕われた増田眠牛

   遺品などは、山中観音堂に保管され、遺骸は、伊勢平の菩提寺の成就院に葬られましたが、墓標は、観音堂内に建てられました。

   その後、眠牛を慕う人々により観音堂は守られ、家内安全の観音様として地域の人々の信仰を集めるようになりました。しかし、お堂は狭く、毎月17日の縁日には、全ての信者が堂内に入ることが出来ず、近所の世話人の家に観音堂の掛け軸を持ち込んで、観音経を唱え、来会者に食事を出す行事(講)を行っていました。この行事は、案内板にあるように、大正時代まで続いていたそうです。今でも、拝んでいる人の姿を見ることがあります。  

  なお、観音堂も春日部駅東口の区間整理に伴い、元の場所(元ラオックス、現在はマンションのそば)から今のこの場所に移転しました。

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 「 眠牛の墓標」側面に辞世が刻まれているとか。読めませんので未確認。

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「山中千手観音堂」落成記念碑

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今年の正月には灯りが。
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堂内

   

    街角の小さなお堂気にも250年余の長い歴史があることがわかりました。春日部の魅力の一つですね。長い間守り続けた世話人会の人々のご尽力に感謝し、敬意を表します。