かすかべ時遊帳

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芭蕉と曾良『廿七日夜、カスカベニ泊ル』

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陸奥の国への旅立ち

 俳人松尾芭蕉は、崇拝する西行の500回忌に当たる元禄2年(1689)3月20日、深川を舟で出発、千住に上がり、旅支度を整え、27日の朝、

『行く春や鳥啼魚の目は泪』

とよみ、門弟の河合曾良を伴い陸奥への歌枕の旅に出ました。芭蕉46歳。今年は、芭蕉旅立ちから330年にあたる年なんですね。

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かすかべ大通り(旧日光街道)から見た「東陽寺」

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「“傳”芭蕉宿泊の寺」

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「東陽寺」の隣の店舗に描かれているシャツターアート。「ものいへば 唇さむし 秋の風」(?)と書いてあります。

  陸奥の国や北陸は、大和や近江と同じく歌枕が多いとされ、芭蕉にとっては、未知なる国への憧れがあった、と言われています。

  なお、この旅立ちの3月27日(旧暦、新暦では5月16日)を記念して、日本旅ペンクラブにより、新暦の5月16日は「旅の日」として制定されています(昭和68年(1988)制定)。

『おくのほそ道』の「草加」の項に、

『其日漸(やうやう)早加(草加)と云ふ宿しゆくにたどり着けにけり。』

 (新訂『おくのほそ道』付現代語訳曾良随行日記 頴原退蔵・尾形仂=訳注、昭和42年9月20日、角川文庫)

という記述があることから、以前は、芭蕉一行は、草加に泊まった、という説が有力とされてきました。

しかし、同行した曾良随行日記には、

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(東陽寺にある曾良随行日記の碑)

巳三月廿日 日出、深川出船。

    巳ノ下尅 千住ニ揚ル。

一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

とあり、以来、「カスカベ」に泊まった、とする説が定着しています。

 ともあれ、3月27日は、千住宿から、草加宿、越ヶ谷宿と6里18丁(町)歩き、その日の夕刻、最初の宿、粕壁宿に到着しました。

 粕壁宿は千住宿より6里18丁の距離にあり、草加宿からは越ケ谷宿を経て4里10丁。千住宿から草加宿まで2里8丁、草加宿から越ケ谷宿まで1里18丁、越ケ谷宿から粕壁宿までは2里18丁。なお、「江戸ヨリ九里余」とは日本橋からの距離です。

※1里=36丁(町)、約4km(3.93km)、丁(町)=約109m。

 当時の旅人は、一日に、だいたい8〜10里(約32キロメートルから約40キロメートル)歩いたそうですので、草加に泊まったとするには、少し距離が短いかな、と思います。翌日(28日)も9里歩いてマゝダ(間々田)まで行っていますから。

 カスカベに泊まったことは、間違いないとして、残念ながら「カスカベ」のどこに泊まったかまでは、わかりません。

カスカベは、単なる通過点

 芭蕉にとって、この旅の目的地は、あくまで陸奥の国ですので、草加やカスカベは、単なる通過点にすぎせん。どこに泊まったかは、あまり重要ではなかったと思います。

 郷土史家の須賀芳郎氏は、著書『春日部の寺院』(1996年)、「東陽寺」の項で、

一番目の宿場に泊り、旅の手続きを【道中手形・出国手続き等】を済ませ、愈々千住を出発、奥羽長途の旅に立つ、「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。芭蕉随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。

それでは『カスカベ』の何処に宿泊したのであろうか?推測の中では現在の一宮町にある『禅寺の東陽寺』ではないかと考えられる。何故なら代々の寺の住職の口伝もあり、さらに筆者は、芭蕉の経歴から見て、主君の死後、京都の五大山の一つ『建仁寺』に入門し、禅・托鉢の修行をし、また俳諧の所属が壇林とあり、壇林とは禅寺に多く、談林とはおのずと異なるものと思われるからで、芭蕉は、いわば禅宗の僧籍を持った人と考えられる。『おくのほそ道』紀行では、それ程多額な費用は持っていないのではないか?【おくのほそ道の記述の中に『痩骨の肩にかかれる物先ず苦しむ。只身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雤具・墨筆のたぐひあるはさりがたき餞などしるしたるは、さすが打ち捨てがたくて路地の煩いとなれるこそわりなけれ。とあり。】深川の庵を処分したり、多少の餞別程度でこの長い旅路の費用は大変な負担になるので、最小限度の費用で旅をしたのではないかと想像されるから、【記述の中で、旅用としての最低限の着物・雤具・筆墨を持ち、しかし多くの人から贈られた餞別は重いなれど道中では、打ち捨て難く荷物になるがやむをえない。と記されているがさほどの金額ではないと推定する】旅篭は利用されず、旅先の禅寺や宿場の有力者の家に宿泊したのではないかと思う。

曾良の日記からもそのことが推定される。

と記述しています。

僭越ですが

 『漸く草加‥』について、歩き疲れた、としていますが、確かに、新暦の5月半ばですので、初夏とも言えないことはなく、早く何処かで休みたい、と思っても何ら不思議ではありません。

 しかし、門弟など親しい多くの人々の見送りを受けての旅立ちだったので、惜別の思いやこれから向かう陸奥への漠然とした不安な思いなどが入交じり、それらの気持ちを整理するために、整理できた、という意味で、「漸く」という言葉で表わしたのではないか、と思います。

 次に、地名のカタカナ表記についてですが、確かに、そのようなことが、想像できますが、少し“盛り過ぎ”の感があります。

 カタカナは、漢文を読む時の補助記号として、生まれたとされ、主に公文書を読んだり書いたりする時にも利用されました。

 その他、学問をするためにも使われていました。学問には多く場合、漢字が使われていたので、カタカナは漢文を読むための補助的な道具だったと言えます。芭蕉曾良は、漢詩や漢文に精通していたと思われますので、カタカナを使うのは、自然のことだったのではないでしようか。

 そもそも、芭蕉が立ち寄ることをどうして知っていたのでしょうか。旅立ちの前に知らせておいたのでしょうか。もし、そうだとすると、曾良は、カスカベが粕壁と当然知っていたはずですね。

翌、3月28日には、

一 廿八日 マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅、止。此日、栗橋ノ関所通ル。手形モ断(ことわり)モ不入(いらず)

続けて、

一 廿九日、辰ノ上尅、マヽダヲ出。  

とあります。

 これを見ると、「粕壁」や「間々田」の地名にも特にこだわりはなく、ただ単にカタカナで書いたのかも知れません。芭蕉の旅の目的は、あくまでも陸奥や北陸の歌枕を訪ねることであったので、歌枕でない土地には、さほど関心がなかったのではないでしょうか。

   4月1日の夜日光に到着した夜は、

…其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者宿。 壱五弐四(不明)

さらに、翌4月2日の夜は、下野の玉入(たまにゅう、栃木県塩谷郡塩谷町玉生)に宿をとったが、

一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理名主家入テ宿カル。

と、宿を変えたことが記されています。粕壁でも宿の名を書いておいくれたら良かったのですが…

   なお、当地では、この東陽寺の他、修験の寺小渕の観音院にも泊まったとする伝承があります。

芭蕉は、日光まで何故そんなに急いだのか?  

    それより、疑問と言うか不思議なのは、芭蕉は、「なぜ、日光までをそんなに急いだのだろうか?」と言うことです。

   何しろ、千住宿を出てからわずか4日で日光に着いているのですから。忍者説もあるそうなので、私には、そっちの方が気になります。

    3月は、陰暦で小の月なので、29日まで。従って、翌日が4月1日となります。

    5年程前、通信教育で大学に行ってた頃、ある方が、この課題(「芭蕉は、何故日光までそんなに急いだのか?」)を卒論のテーマに選んだと仰っていました。

その仮説は、

江戸時代、毎年4月に日光の大祭に朝廷から派遣された日光例幣使が、4月の中旬に日光東照宮に到着するので、その前に日光を訪れたかった。即ち、街道筋の警戒が厳しくなる前に通過したかったのではないか。

とのことでした。興味深いと思いませんか。

   そう言えば、曾良は、栗橋の関所を「手形も断(ことわり)もいらずに通った」と、書いています。厳しい警戒が無かった安堵感とも解釈できます。

日光例幣使(にっこうれいへいし)

①日光へ例年、幣物(金色のぬさ)を奉献する勅使のこと。日光東照宮で毎年4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われる。この祭礼に朝廷からの幣物を持って行くのである。正保4年に始まり慶応3年までの221年間毎年中止することなく続いた。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。

②日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は、往路には東海道・江戸を経由せず、中山道倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。

   高校二年生の時の担任が、当時、若手の芭蕉研究者と言われた先生でした。修学旅行で東北に行った時のこと、平泉の中尊寺で、お坊さんたちが、先生を取り囲むようにして、芭蕉について、色々質問していたことを思い出しました。「へえー、先生すごい!」と思ったことがありました。

   今さらですが、もう少し芭蕉のことを聞いておけば良かったなあ、と思います。

 

   少し強引だったかも知れませんが、「“傳”芭蕉宿泊の寺」東陽寺について、日頃思っていることを書いてみました。

 

参考にした書籍 

 

 

 最後までお読みいただきありがとうございました。