かすかべ時遊帳

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推定樹齢600年余りと言われる県指定天然記念物の“イヌグス”は記念樹なのか?

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碇山のイヌグス  左の低い樹がイヌグスf:id:takejiisan:20190113181458j:image

スッキリ‼

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 昨年2月に、整備され、全体が見やすくなりました。

以前は、こんな感じ。

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よく見えませんよね。

 地元の観光ボランティアさんや案内人の方々が必ず案内する場所がこの「碇神社のイヌグス」。

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案内板(表面)

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古くからまちを見守り続けるイヌグス

 江戸時代の粕壁宿は、米や麦の集積地として栄え、古利根川はを利用した舟運が行なわれていました。この看板のある付近には、下喜蔵河岸(しもきぞうかし、荷の積卸場)があったと伝えられています。船の停泊に便利で、岸辺が小高い丘であったことから地域の人々はこの辺りを「碇山」(いかりやま)と呼んでいました。

 また、この「碇山」にあるイヌグスの巨木は、船頭にとつて船着場の目印とされていたと伝えられており、「碇山のイヌグス」と呼ばれ、親しまれてきました。

 かつては、夏になると、涼を求めてイヌグスの木蔭に集まり、地域の憩いの場となっていました。子供たちは、枝にロープを付けてブランコ遊びをしたり、昼時になると、近くで働いていた職人たちの食事の場となり、イヌグスの枝の上で涼しむ人もいたようです。

 このイヌグスは、現在も地域の人々に愛され、春日部の歴史を現代に伝える貴重な地域資源となっています。

   平成三十年二月  春日部市

 河岸(かし、人や荷物を船から上げ下ろしする集積場)は、江戸時代初頭から年貢米の輸送手段として発達し、陸送では馬一頭につき米二表しか運べず、船積みにすれば人手も少なくて済み、一度に三百表ものコメを積むことが出 来たそうです。そのため、多少の危険を冒しても安く早く運ぶ船運(しゅううん)が利用されたようです。特に、北武蔵(現在の埼玉県)は、東北や上信越方面からの中継地として栄え、河川の船運(しゅううん)が盛んで、河川の要所には集散地と河岸が整備されていました。

 当時は、年貢米などが上り荷(のぼりに)として地方から江戸へ、塩・綿・木綿・干イワシ・小間物・荒物などが下り荷(くだりに)として江戸から地方へ運ばれていたそうです。 

〘参考〙

 お隣の宮代町の町史には、次のような、記述があります。

川舟と舟運

 河川舟運の主力は、川舟という喫水(きつすい)が浅く船底が平たい舟であった。利根川・江戸川の水運で活躍した高瀬舟などは有名である。町域にも杉戸にも杉戸町境に大落古利根川が流れている。古利根川では舟運がなかったのだろうか。

 結論からいうと、幕府公認の河岸場は古利根川にはなかったので、公には年貢米の回漕はなかった。川沿いの杉戸、粕壁などの宿場でも、河岸問屋が栄えるということはなかった。これは、古利根川下流松伏堰(まつぶしぜき)(松伏溜井、堰下流の村々に用水を供した)が設けられており、江戸と直結していなかったことによるようである。また、葛西用水古利根川)川俣元圦(羽生(はにゅう)市)から利根川の水が通水し、かつ農業の水が松伏で堰き止められる。夏季には古利根川川は水量が豊富だが、冬季には逆に減少するため、大きな舟の乗り入れに不便だったことも考えられる。運上金を納めることで幕府公認となっていた、江戸川沿いの河岸場の利害もあったことだろう。

 しかし、例えば粕壁宿(かすかべじゅく)の年貢米は、冬季には江戸川の金野井河岸庄和町金野井(しょうわまちかなのい)に運び出すものの、六〜八月は古利根川を利用して回漕しており(享保十八年「村鑑書上ヶ帳」粕壁宿文書)、全く古利根川で舟運が行われていなかったわけではなかった。同じ粕壁宿では年貢米の直接回漕は宝暦十三年(一七六三)には取りやめられるものの(「村明細帳」粕壁宿文書)、文政十三年(一八三○)にも高瀬舟(たかせぶね)、似高瀬舟(にたりたかせぶね)、瓢艜船(にたりひらたぶね)などの川舟ニ一艘を所持しており(「公用鑑」(こうようかがみ)粕壁宿文書)、民間の荷物搬送は依然として行われていた。以下略

宮代町史 通史編  第四章  御成道と宮代の道  第ニ節  近世宮代の橋と舟運 宮代町立図書館

春日部市史」も参考にしましたが、お隣の「宮代町史」を引用させて頂きました。

この時期の古利根川は、

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川底が露わで確かに水量は、ありません。昔もそうだったのでしようね。

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案内板(裏面)

埼玉県指定天然記念物 
 碇神社のイヌグス 
 指定年月日 昭和三十年十一月一日

「碇神社」と呼ばれる祠は、江戸時代に名主を務めた多田家の屋敷稲荷です。祠の脇に生育する巨木がイヌグスで、樹齢六百年余りを数えます。かつては、高さ約十二メートルの巨木でしたが、昭和五十四年の台風で被害を受け、現在では、高さ約七メートル、根回り約十メートルを測ります。

 「イヌグス」は、和名をタブノキといい、主として中部地方以南の海岸地に多く自生している暖地性の常緑樹です。そのため、「碇神社のイヌグス」は、イヌグスの北限とされ、埼玉県でも珍しい樹木であることから、昭和三十年に県の天然記念物に指定されました。

平成三十年二月 春日部市教育委員会

 案内板の通り、なにしろ推定樹齢600年余りの老木ですので、傷みも目立ち、樹医の手当が行われています。なお、木の中にセメントが入れられており、後に樹脂も入れられましたが、近年、樹木の生命力により、詰め物を吐き出していることが確認されているそうです。

  よく見ると、「通気孔」が付いています。やはり、イヌグスも呼吸しているのでしようか。

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手当されています。少し痛々しいですね。
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通気孔

   なお、先の案内板では、このイヌグスは北限となっていますが、東日本大震災の時、東北の宮城県にイヌグス(タブノキ)がある映像を見ました(確か「サンデーモーニング」で)、なので、ほぼ北限と言うほうが良いのかも知れませんね(少し意地悪かな)。

  それにしても600年余りの長い間、風雪に耐えてよく頑張っています。

 イヌグスは、学名をクスノキ科タブノキタブノキといい、老樹の材に巻雲状の美しい模様の現れたものは、タマグスと呼ばれています。「イヌグス」という名は、クスに似ているがクスではなく、木質が劣っているところから、頭にの字をつけてこう呼ばれています。

 また、イヌグスの樹皮は、多糖体を主成分とする粘質物を含み、粉末にして水を加えると粘液になるので、線香、蚊取り線香などのつなぎや染料(樺色の染料)に用いられていたようです。

 ところで、なぜイヌグスが当地に植えられているのか、どうして、イヌグスなのかなどは誰も教えてくれません。当たり前ですが。

 そんな中、興味深かい文章を見つけましたので、少し長いですが、紹介します。

  熊本県水俣出身の民俗学者谷川健一(たにがわ·けんいち、1921--2013)は、著書『日本の地名』岩波新書、新赤版495、1997)で、同じく民俗学者折口信夫(おりぐち·しのぶ)の『上代日本の文学』の文章を引用して、次のように述べています。

折口信夫が、

 我々の祖先(オヤ)たちが、此国に渡って来たのは、現在までも村々で 行わてれいる、ゆいの組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることができたのだろうと考えられる。その漂着した海岸は、“たぶ”の木の杜に近い処であった。其処の渚の砂を踏みしめて先、感じたものは 青海の大き拡がりと妣(ひ)の国への追慕とであったろう。

※妣(ひ)の国=母、亡き母のくに、つまり母国。

と言っており、

これを受けて、谷川健一は、

  折口は南の島から漂着した日本人の祖先の記念樹がタブの木であったと言っている。

  タブの木は、イヌグスといって、クスの一種である。クスノキ科には、クスノキ属、タブノキ属、シロモジ属、クロモジ属、ゲッケイジュ属、カゴノキ属がある。このうちタブノキは本州の暖地、四国、九州、琉球、台湾、中国などに分布する。ー中略ー

 タブの木は、直径ニメートル、高さ十五メートルからニ十メートルに及ぶものがある。建築材や家具材に適している。船材としても珍重されたことは、奄美大島の住用材で、戦後なってもタブの丸木舟を作り、田船として使ったり、あるいは奄美大島加計呂麻島(かけろまじま)との間によこたわる瀬戸内を横断していたことで分かる。

 折口は、さきの文章でゆいの組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることが出来たのだろうと考えられると言っている。「ゆい亅と言うのは共同作業のことであるが、もともと、物を結びつけることを言う。私(谷川健一)はこのことから同族集団あるいは地縁集団が、丸木舟と丸木舟を結びつけ、安定をよくして波浪を凌いだことを想像するのである。折口もそのような光景を想定していたのではあるまいか。タブの木もたんに民族渡来の記念に植えたのではなく、その舟に乗って渡航したことを示す大切な思い出の樹であった。

と述べています。

 民俗学者柳田國男は、自身の著書『海上の道』において、日本民族の渡来について、日本文化の源を沖縄を通して南方に求めようとする仮説を唱えました。

有名な「椰子の実」と言う歌は、柳田國男の話を聞いて作ったとされる島崎藤村の詩です。自分も小学生か中学生の時習いました。

『名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ 故郷の岸離れて 汝(なれ)はそも波に幾月  旧(もと)の木は、生(おい)いや茂れる   枝はなお影をやなせる  ー以下略 ー』の「旧の木は、生いや茂れる」部分は意味深ですね。旧の木は、タブの木だったのでしょうか。

  なお、クスについて言えば、1月2日放送のブラタモリ太宰府天満宮』編でも天満宮には、クスノキが生い茂る林があると、言っていました。鎮守の森としての役割の他、天満宮の造営・補修の部材としての用途もあったと思います。

 碇神社のイヌグスは、そんな、大袈裟な理由ではなく、案内板の説明にある通り、後代には、船頭さん達の船着場の目印になりましたが、植えた当初は、単に神社や屋敷を守る鎮守の意味だったのでしようね。

  でも、記念樹と考えた方がロマンがあるとは思いませんか。

 

 日頃何気なく見ている景色もいろいろ考えると面白いです。