かすかべ時遊帳

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春日部の八坂神社は何故この場所に鎮座しているのか?

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 粕壁宿(春日部大通り、旧日光街道)に入る三叉路(一宮交差点)の少し右手前に、鎮座している神社が、ここ「八坂神社」(やさかじんじゃ)です。

 八坂神社と言うと、「エッ、京都市祇園の八坂神社?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。八坂神社の関連神社は、全国に2千数百社あると言われています。春日部の八坂神社もその内の一社です。近くには、「東八幡神社」、「東町大下稲荷神社」、「日枝神社」などがありますが、粕壁宿の市神様は、この「八坂神社」と言われています。

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直進: 国道4号   左方向:春日部大通り(旧日光街道)右方向:牛島・樋堀方面

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境内の案内板

粕壁宿は、日本橋から九里ニ丁(約三六キロメートル)の距離にある。幅は約九メートルの道沿いには、約一・一、キロメートルもの町並みが続いていた。嘉永二年(一八四九)には、人口は三七七九人、旅籠屋は三七軒あった。宿の入り口にあたる八坂神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれた。明和七年(一七七〇)に火災に遭い、詳しい由来は不明だが、宿の市神として信仰された。神社の祭礼は、現在の春日部夏祭りの起源でもあり、江戸時代には毎年絽六月(旧暦)に行われた。

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(江戸時代後期の八坂神社周辺・重要文化財 五街道其外絵図 日光道 巻第ニ 東京国立博物館所蔵)

 ところで、神社を訪れると、社殿が新しいとに気づきませんか。

    今から8年前の平成22年10月25日に放火被災により社殿が神輿共々焼失してしまいました。      その後、関係者の多大なご尽力により、翌年の祭礼までに復興再建され、祭礼は無事齋行されました。

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復興再建された当時の八坂神社 

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八坂神社復興の碑

◎ご祭神 須佐之男命(牛頭天王

◎祭礼日 七月十五日

     (現在七月中の土曜日)

 明和七年(一七七〇年)の火災によって社殿が焼失したため、勧請の由来は不詳である。

 明治以降は、須佐之男命を祭神としてお祀りしているが、神仏分離以前は「牛頭天王」を祀っていた事から、今でも「天王さま」の通称で親しまれています。

 古くから粕壁宿の守護神として信仰厚く、元来例祭は、七月九日から十五日まで一週間にわたって行なわれていました。太平洋戦争後は一時中断していましたが、復興が模索される中、春日部市制二十周年の昭和四十八年からは市民夏祭りとして、毎年七月中旬に例祭が執行され、神輿渡御と山車・屋台巡幸が盛大に行なわれています。

 氏子区域は、旧粕壁町一体の町会であり、通常は宮元である一宮町から総代が選出され、各町会並びに自治会の参加協力のもとで神社の管理運営を行なっています。

 去る平成二十ニ年十月二十五日夕刻、放火被災により社殿が焼失。その後、復興奉賛会を組織して工事を施工し、翌平成二十三年七月に社殿が再建され、内陣他調度品も整えて夏祭りが例年通り無事齋行されました。 

 ここに後世のため、神社由緒を記します。

 平成二十四年七月吉日

 八坂神社氏子中 粕壁二十四町会

 先の案内板もこの復興の碑のいずれも勧請・創建の由来は不詳となっています。

 郷土史家の須賀芳郎氏は、自身の著書『春日部の神社』(1996年)において、

 鎮座年月日は、不詳なれど、『武州古文書』の中に、延文六年[一三六一]の市場祭文に『下総州春日部郷市祭成之』とある。

 これは、春日部市に市場が開かれ、市神様に祈願したときの祭文であることがわかる。春日部では、近在の農民の経済流通の手段として、四・九の日に市がたてられ、米の相場・反物の取り引き・生活物資の取り引き等が盛んに行なわれていた。中世の頃は物と物の交換市であったようである。この市は、昭和ニ十九年頃まで盛んであった。[これを六斎市と言う。]春日部付近では、越ヶ谷・岩槻・杉戸宿でそれぞれ市が開かれいた。

 このことから類推して、この神社の創建は中世の頃と思考される。

  と述べています。日本史では、中世は鎌倉・室町時代とされています。

    明和7年の被災焼失に加えて今回(平成22年)の被災焼失、いずれも地域の人々の力で無事に復興再建されました。これからも八坂神社の歴史の一頁として末永く語り継がれていくことでしよう。

  「八坂神社」のご祭神は須佐之男命」です。須佐之男命」は、備後国風土記(びんごのくにふどき)逸文(いつぶん)の蘇民将来の伝承から、「牛頭天王」は古くから須佐之男命と同一神と考えられてきました。

 その伝承とは、

昔、貧乏な兄蘇民将来(そみんしようらい)と裕福な弟巨丹将来(こたんしようらいという)兄弟のところに、旅の途中の汚れた身なりの旅人(武塔神、のちに牛頭天王と呼ばれる)が訪れ一夜の宿を請いたのに対し、ケチな弟は冷たく断った。一方、兄の蘇民将来(そみんしようらい)は、貧しいながらも、温かく迎え手厚くもてなした。それから数年の後、再び訪れた牛頭天王は、兄の蘇民将来に子孫が代々疫病にかからないための芽の輪(めのわ、疫病除けの呪符)を授けた。そのとき牛頭天王は、「われは、須佐之男命なり」と名乗った、と言う。

というものです。この伝承は、蘇民祭として、東北地方を始め日本各地に今も残っています。 そういえば、10年ほど前でしたか、下帯姿の男性の写真(JR東日本のポスターだったと思います)が物議を醸したことがありました。

 また、須佐之男命も牛頭天王も、どちらも大変な荒神(あらがみ)という点で共通していることも同一神と見做された要因の一つと言う説もあります。

 なお、「牛頭天王」はインドの祇園精舎(ぎおんしようじゃ)の守護神、または、朝鮮半島新羅にある牛頭山の神とも言われ、古くから疫病除けの神とされてきましたが、インドや経由地の中国、朝鮮半島などで、「牛頭天王」を信仰したという痕跡が認められないことから、近年、「牛頭天王」は、日本独自の神という説が有力とのことです。

 牛頭天王」を祀っている神社は、明治元年(慶応四年)神仏分離令まで、「天王社」「天王様」などと呼ばれて人々の信仰を集めてきましたが、「神仏分離令」後は、現在の社名「八坂神社」となりました。

 この八坂神社が粕壁宿のいわば入り口に鎮座しているということは、宿に疫病が入り込まないように、という、疫病除けの強い願いがあったのではないでしょうか。 

   境内は、さほど広くはありません。神社によく見られる御神木も見当たりません。いくつか石碑も残っていますが、光と白カビの関係で、文字は良く見えません(見えてもタケジイには、解読できませんが。)

   そんな中、こんな石碑がありました。

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  猿田彦大神の文字が見えます。側面には、文政二年の文字、文政二年は西暦1819年です。奇しくも今年は、2019年、丁度200年前かぁ、まさに歴史です。

 

 

※ブログに、書いたことは、絶対ではありません。歴史には、その解釈に諸説があります。あくまでも、タケジイの考え、意見ですので、どうぞご理解ください。

 

【八坂神社】