かすかべ時遊帳

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講演:「護国寺に残る安倍仲麿塚の碑」の聴講報告

9月7日(土)、「大和文化会・第5回例会」を聴講しました。

 会場:銀座ブロッサム中央会館

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銀座ブロッサム 中央会館

演題:「護国寺に残る安倍仲麿塚の碑」

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護国寺 仁王門

講師:東野浩之(とうの・ひろゆき)先生

講師プロフィール:

大阪大学及び奈良大学教授を経て2017年奈良大学・大阪大学名誉教授 2010年紫綬褒章受賞 2017年文化功労者

飛鳥・奈良時代への関心から、木簡、金石文などの文字資料や正倉院、法隆寺、唐招提寺など宝物を中心に対外交流史の研究に取り組む。専門分野は日本古代史

講師の東野先生は、史料学の権威で金石文解読の第一人者。

私は、通信制の大学で東野先生がご担当の「史料学概論」という科目を履修したことがあります。その時のテキストは先生の著書『日本古代史料学』(岩波書店)でした。自分にはとても難しく大変苦労した思い出があります。

先生は、「史料学」という学問について

まず、古代史料学を学ぶには、その原文に親しむことが、何より肝心である。そして、史料に慣れてくると、自分なりの解釈をしてみたくなるのが人情である。しかしその場合、史料から考えられることと、史料から判ることは、はっきり区別されなければならない。単に史料からこう考えられるというものではなく、こうしか考えられないことを、傍証を集め証明するのが研究である。史料から何がどこまでいえるかを実感するには、史料から出発する個別の論文を読んでゆくのが一番であろう。

(奈良大学通信教育部発行・サブテキスト 「史料学概論」学習指導より引用)

と書いていらっしゃいました。

そんな思い出深い東野先生のご講演でしたので楽しみにして会場に向かいました。

今回の演題について、先生は「結構マニアックなテーマですが…」とおっしゃっていました。確かに、自分も護国寺に行ったことはありますが、仲麿の碑のことは全く知りませんでした。

講演は、まずは仲麻呂について、


       

         

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阿部仲麻呂 (Wikipedia)

阿部[朝臣]仲麻呂  あべのなかまろ  朝衡

701〜770  遣唐留学生。中務大輔舟守の子。716年(霊亀2)遣唐留学生に選ばれ、717年(養老1年)遣唐使に従って入唐。大学に学び、721年(養老5=開元9年)佐春坊司経局の校書に任官、佐拾遺・左補闕を歴任した。733年(天平5=開元21年)遣唐使と帰国することを願ったが許されず、儀王の友・秘書監・衛尉卿などを経た。753年(天平勝宝5=天宝12年)許されて遣唐使藤原清河一行と帰途についたが、遭難して安南(ヴェトナム)に漂着。翌754年(天平勝宝6年)長安に戻った。その後在唐のまま佐散騎常侍・鎮南都度・安南節度使を歴任、770年(宝亀1年=大歴5年70才で没し、潞州大都督を贈られたが肩書は、光禄大夫・左散騎常侍・御史中丞・北海郡開国公とある。その学才は唐でも聞えたといい、唐の文人王維・李白・趙驊・儲光・包佶らとも親交があった。有名な「天の原ふりさけみれば」の歌は、帰国に際して明州で詠まれたと伝え、他に惜別の二首が残る。唐では朝衡・晁監などと呼ばれた。仲麻呂は仲麿ともかく。

[出典]続紀、東征伝、古今和歌集目録、旧唐書(倭国伝)、新唐書(日本伝)、全唐詩、古今集

(『シルクロード往来人物事典』東大寺教学部著、同朋舎出版、1986)

この『事典』の文章は、先生が執筆されたとのことですが、仲麻呂の生年がその後の研究成果で変わり、73才→70才になったとのことで、今回、70才に修正されていました。

また、「あべのなかまろ」の「あべ」の字が阿部、安倍、安部など、また、「なかまろ」も仲麻呂、仲麿などの表記があることについては、

  • 平安時代初期頃までは、音読み、すなわち発音が重要で漢字は後から当てられため、漢字表記には特に拘らなくてよい。
  • 従って、阿部が正しく安倍は間違いとは一概には言えない。

と言うことなので、当記事でも、いろいろ表記が異なる箇所がありますが、お許しを…

また、姓と名の間に何故「の」の字が入ることについて、

  • 「の」が入る場合は氏名(うじめい)を名乗り、「○○氏の○○」などと表す。「の」が入らない場合は「姓名」を表す。
  • 例えば、「徳川家康」は姓名、氏名を名乗る場合は、「源(みなもと)の家康」などと表す。
  • 従って、仲麻呂の場合は、「あべ氏のなかまろ」と考えられる。

とおっしゃっていました。

あまの原の歌

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

『古今和歌集』に所収されている有名な歌ですね。『百人一首』にもありますが、何故か『万葉集』にはありません。

『古今和歌集』歌番号406(巻九・羇旅歌)の詞書(ことばがき)には、

唐土(もろこし)にて月を見て、よみける

            安倍仲麿

と、また「注」には

この歌は、昔、仲麿を、唐土(もろこし)に物習(ものならい)はしに遣(つか)はしたりけるに、数多(あまた)の年を経(へ)て、え帰(かへ)りもうで来(こ)ざりけるを、この国(くに)より又使(つかひ)まかり至(いた)りけるにたぐひて、もうで来(き)なむとて出(い)で立(た)ちけるに、明州(めいしう)と言ふ所(ところ)の海辺(うみべ)にて、かの国の人、餞別(むまのはなむけ)しけり。夜(よる)に成りて、月のいと面白(おもしろ)くさし出(い)でたりけるを見て、よめるとなむ語(かた)り伝(つた)ふる

(頂いたレジュメから)

  • この歌は、明州での送別の宴で詠まれた歌で、望郷の想いが感じられる有名な歌です。
  • この蘇州での送別は、753年(天平勝宝5)11月15日のことで、この夜は満月だったそうです。
  • 仲麿は、前年(752年)に来唐した遣唐使藤原清河の第一船に搭乗したが、遭難し安南(ヴェトナム)に漂着、その後、唐に戻る。
  • 明州は、現在の中華人民共和国浙江省の寧波市。中国大陸の東端に位置する港湾都市。
  • この歌に詠まれた「三笠山」は、「御葢山」のことで、「若草山」ではありません。山焼きで知られる「若草山」は、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから俗に「三笠山」とも呼ばれ、「御蓋山」と混同されてきました。間違いやすいですよね。もちろん“どら焼き”ではありません。
  • 『東大寺要録』巻四、天地院条には、天地院と言う寺院の所在について「〜略〜御笠山安部氏社之北高山半中〜略〜」とあり、行基が建立したという天地院の南に安部氏の社があったと記されている。
  • 天地院(てんちいん)は、大和国添上郡(奈良県奈良市)の春日山にあった行基が創建に関わったとされる古代寺院。東大寺の前身寺院の一つとされ、現在の二月堂の奥の山上辺りにあったと考えられている。山岳信仰・修験道の行場として鎌倉時代末期頃まで存続した。法蓮寺とも言う。
  • 春日山(かすがやま)は、春日大社の東側にある標高497メートルの花山(はなやま)もしくは西隣の標高283メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称。その南側に安部(安倍)氏の社があったようである。なお、春日大社の社殿は、神護景雲2年(768)の造営で、仲麿の時代には、縄張りを示す注連縄があった。
  • また、遣唐使の派遣の際には、航海の無事を祈って、祭祀が行なわれた。『続日本紀』養老元年(717)に「二月壬申の朔、遣唐使、神祇を葢山(みかさやま)の南に祀る」とあるように、仲麿自身も唐への旅立ちに際し、御葢山に神祇すなわち天の神地の神を祀った。
  • 仲麿が明州での送別の宴で満月を見てこの歌を詠んだのは、仲麿自身に特別な縁がある御葢山にかかる月を思い出し、望郷の念はもちろん航海の無事を祈った神祇のことも思い出し、この歌を詠んだのではないかと思う。

さて、ここからが本題

護国寺に残る安倍仲麿塚の碑

護国寺

護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺院。東京メトロ有楽町線護国寺駅のすぐ上にあります。正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」。

天和元年(1681年)2月7日、第5代将軍徳川綱吉は生母、桂昌院の願いをうけ、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じたとされます。

 

護国寺の公式ホームページはこちら

↓↓

大本山 護国寺

また、こちらのサイトには、有り難いことに境内の地図があります。

↓↓

護国寺 | 車椅子で行く神社仏閣・パワースポットの旅

仲麿堂というお堂の前にあるのが、本講演のテーマの仲麿塚碑です。

幸いこちらのサイトに画像がありました。「筆塚」の次にあります。

↓↓

護国寺その5(東京都文京区) : 好奇心いっぱいこころ旅

仲麿塚碑

護国寺仲麿堂前 仲麿塚銘文 碑陰(裏面)

此碑旧在大和国安倍村久没 

蒿莱無人剥蘚者大正十三年

甲子仲秋移植斯地題詩于其陰     

       箒庵逸人

読み下し文

此の碑、旧大和国安倍邸に在り。久しく

蒿莱(よもぎあかざ)に没し、人の蘚(こけ)を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。

    箒庵逸人(高橋義雄)  

恋闕葵心欲愬誰向東拝

賦望郷詞千秋唯有天辺

月猶照招魂苔字碑     

闕を恋うる葵心(きしん)、誰かに愬(うった)えんと欲す。東に向きて排し賦す、望郷の詞。千秋唯有り、天辺の月。猶(なお)照らす、招魂苔字の碑。

※闕(けつ)=宮廷のこと。

※葵心(きしん)=ひまわりのように心はいつもそちらを向いている。

高橋義雄は、実業家で俳人。俳号は箒庵逸人。そして、彼はその著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)において、この経緯を書いています。長文なので、こちらのサイトをご覧下さい。

↓↓

「箒のあと」280 護国寺仲麿堂縁起 : だすだすだすノート

要約すると

  • 大正の初めに、奈良の道具屋で、高さ四尺、幅二尺四寸、厚さ一尺ほどの自然石に、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけた。
  • その碑は古色蒼然として、一見して七、八百年以上はたったものと思われた。
  • 碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟であることにまったく疑いはなかった。
  • 出どころを聞いてみると、大和国磯城郡安倍村の、安倍文殊堂の前にあったのだという。
  • 安倍村は、安倍一族の発祥の地なので、仲麻呂が唐において物故したのち、招魂碑としてこれをこの地に建てたものにちがいない。
  • そのような古碑が、道具屋の店頭にさらされることになったのは、少し疑問であるが、既に市場に出ている以上、早晩、誰かの手に渡っていくだろうから、心なき人の手に渡らぬ前に、とにかく自分が買い取り、いったん自邸の伽藍洞に引き取っておいた。
  • 仲麻呂は、弘法大師よりも先輩で、しかも年代にはそれほどの違いもなく、また同じように入唐しているという縁もあるので、この碑を護国寺の大師堂前に移建するのは、決して不届きなこと(原文「不倫」)ではないと思う。
  • と同時に、そのままにしておいたのでは、後世になってからその由来がわからなるだろうと考え、はなはだおこがましいことではあったが、碑陰に引(ひき=あんない文)と詩を彫った。

この仲麿塚碑について、東野先生は、

  • 奈良の古物商で入手したと言うことが、なんとも… 趣味の域を出ないのか。
  • 考古学的見地からも7〜8百年前のものとは思えない。いずれにしても、それより後年のもので結構新しいもの。せいぜい江戸時代後期の100年前(大正からみて)くらいのものか?
  • 安倍文殊院の門前に仲麿塚碑があったことはいずれの文献史料にも見当たらない。塚の存在は疑わしい。

と、懐疑的な見解を述べていました。

仲麿塚は無かったのか?

その一方で、本当に仲麿の塚は無かったのか? という疑問も指摘されました。

そこで、『南都名所集』と言う史料を参考に、

  • 江戸時代初期の『南都名所集』と言う地誌の巻9に「仲麿の塚」として、刀を指した人が塚に手を合わせている絵がある。
  • この地誌は、延宝3年(1675)刊行。10巻10冊。太田叙親と村井道弘の共編。大和国内の寺社・名所旧跡を、古歌や著者自作の句を織り交ぜながら、豊富な挿絵とともに紹介。1~6巻までは題号のとおり「南都」を、7巻以降の4冊は奈良を離れ、広く大和国全域の寺社を叙述する。大和地域の歴史・文化研究に欠かせない史料の一つ。

もう一つは『大和名所絵図』巻6と言う史料にも

  • 名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
  • 『大和名所図会』は、寛政3年(1791年)刊行。秋里籬島/著、竹原春朝斎/画

幸い画像がありますので、こちらのサイトをどうぞ

↓↓

安倍文殊院(桜井市) | 歴史文献で訪ねる奈良 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」

  • 安倍文殊院の前の方2箇所に、「みささ記」と記されていて、塚(墓)と思われるがものが描かれている。
  • これは陵(みささぎ=墓)のことなのか? 
  • そして、それは果して誰の塚(墓)なのか? 

と説明されました。とても気になります。

 そして、なんと

仲麿は帰国していた?

えっ!と思いますよね。先生は、二つの史料をあげて説明されました。

1.『新唐書』日本伝

開元の初め(玄宗、元年、元明和銅六年・713)、粟田がまた朝した、その副の朝臣仲麿(阿部仲麻呂)は、―中略―

華を慕って肯(あ)えて去らず、姓名を易えて朝衡(ちょうこう)といい、左補闕・儀王友を歴て、該識するところが多かった。久しくしてすなわち還った。聖武が死んで、女の孝明(孝謙の誤り)が立ち、改元して天平勝宝といった。

 天宝十二載(玄宗、孝謙天平勝宝五年・753)、朝衡がまた入朝した。上元(粛宗、孝謙天平宝字4―5年・760―61)中に、左散騎常侍・安(鎮)南都護に擢(ぬき)んでた。

※粟田とは、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)のこと。

姓は臣であったが、天武天皇13年(684)の「八色の姓」の制定にともない、「朝臣」姓を与えられた。

 

現代語訳 新唐書 日本国伝 その3 | テラさんの万華鏡

 

そこで、

  • 何故、唐の明州で詠まれた歌が古今和歌集に収めらたのか?
  • 仲麿は唐で亡くなったのに、一体誰が歌を伝えたのか?

と言う、極めて素朴な疑問があるそうです。

そして、仲麿はなんと楊貴妃とともに日本に帰ったと言う説まであるとか。さすがにそれはないか…

また、

2.『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四」に、次のように記されています。

―略―

此の国の方を詠(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、

あまのはらふりさけみれはかすがなるみかさの山にいてしつきかも

と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返て語(かたり)けるを聞(きき)て語り伝へたるとや

※仲丸とは、仲麿のこと。

現代訳では

『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」

―略―

そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

こう云って泣いたといいます。此れは、仲丸(仲麿)が、此の国に返って、語ったのを聞いて語り伝えたものだそうです。

私たちがよく知っている仲麿の歌は仲麿が日本に帰朝して仲麿自身が語ったものが語り継がれていると言うことです。びっくり。

そうだよね自分で語ったのなら結構腑に落ちます。

そうすると今までの唐での客死説は覆ってしまいますが…

もちろん何らかの傍証が必要なのは言うまでもありません。

もしかして、それが安倍文殊院前にあったと描かれている「みささ記」と言う塚は仲麿の陵(墓)なのか? 

東野先生は、はっきりと結論を仰らなかった(聞き漏らした?)ので、わかりません。

 

そして、東野先生は、角谷常子編『古代東アジアの文字文化と社会』(臨川書店)、2019/4)と言う本の中で今回のテーマについて、「コラム」をお書きになっています。

そこには何らかの見解が書かれているのでしょうか?

 

すみません、お高いご本なので、読んではいません。奈良大学のこちらのサイトをご覧下さい.

↓↓

奈良大学文学部史学科の角谷常子先生(東洋史)編集の『古代東アジアの文字文化と社会』(臨川書店、2019年)が刊行されます。 | 史学科からのお知らせ | 文学部:史学科 | 学部・大学院 | 奈良大学

こちらも

↓↓

古代東アジアの文字文化と社会―臨川書店

 

講演が終わって

講演終了後、会場の外に出たときに、ちょうどお迎えの車が停車していて、東野先生が出口から歩いていらっしゃるところでした。

失礼とは思いましたが、他の方がお話されたあとに、

  • 先生のご担当科目を受講し、科目試験で一度不合格になったこと、不合格の理由を質問した際、「貴方の解答は、歴史的なことは書いているが、肝心の史料批判はなされていない。よって合格点はあげられません。」と回答頂いたことをお話しました。
  • さらに「お陰さまで、試験の不合格で“史料学”というものが少しわかりました。今でも感謝しております。ありがとうございました。」と、お礼を申し上げました。
  • 東野先生は「そうですか、通信の方ですね。単位は取られたんですね、それは良かった」とおっしゃってお車に乗られました。ちょっぴり胸のつかえがとれました。

 

またまた、長文になってしまい、すみません。

 

講演を聴き、愚考を重ねなんとかこの記事を書きました。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

古代東アジアの文字文化と社会

古代東アジアの文字文化と社会

 

 

大正天皇即位に伴う大嘗祭御用「梅田牛蒡」は幻のごぼう⁉

女體神社の鳥居の脇にある門柱(社号標)の側に細い石碑が建っています。

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左端にひっそりと建っています

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大嘗祭御用梅田牛蒡御買上記念

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大正四年十一月十四日

この石碑は、大正天皇の即位に伴う大嘗祭に、当地で採れた牛蒡(ごぼう)がお買上になった「記念碑」です。

えっ!なんで“ごぼう”なの?と思いますよね。

実は、神社入口の説明板にもあるように、江戸時代から当地梅田は“ごぼう”の産地でした。江戸時代の料理本にも「梅田ごぼう」の名が載っていたそうです。

梅田ごぼう

『春日部市史』によると

〜略〜『武蔵国郡村史』梅田村の項には、物産として米・大麦・大豆と並んで「牛房千五百本、牛房は、岩槻町に販く、多分の産出なしと雖も其名近郷に著し」と、ごぼうが梅田村の特産物であることが記されている。

梅田村の地味は「色黃赤真土(まつち)にして砂を交へ、稲麦茶に適せずして」(『武蔵国郡村史』)というもので古利根川と古隅田川に挟まれた水はけのいい砂混じりの耕地がごぼうの栽培に適していたのであろう。 

 梅田二丁目の金子家は、江戸時代にごぼうの品種改良に成功して「梅田ごぼう」の名を世に送ったことで知られ代々種子の栽培が専業であったことから「種親」と呼ばれてきたという。梅田ごぼうは通常直径五〜六㌢ぐらいの太い品種で、芯がなく、中身は裂けていないが適当に鬚(す)が入っているものが上等とされ、千葉の大浦(晩生種)、京都の白河(早生種)、梅田(中生種)、それに細身の滝川・砂川などが優良品種といわれる。

 明治十年に新政府が殖産興業のために催した第一回内国勧業博覧会には、梅田村の清水弥藤次が特産品としてごぼうを出品しているが、梅田ごぼうは明治時代になると宮内省大膳寮にも納入されるようになり、現在、梅田東の女体神社入口には梅田ごぼう宮内省お買上げの記念碑が建立されている。

(『春日部市史/第六巻/通史編Ⅰ』近世/第六章/貨幣経済の浸透と商品生産/第二節/商品作物の生産/梅田ごぼう)

また、郷土史家の須賀芳郎氏は、

梅田ごぼうの栽培についての資料となる文献がないので定かでありませんが、古老の話を総合すると江戸時代の中頃には栽培されていたといわれています

梅田ごぼうの適地は、おおむね梅田東耕地が多く、特に春日部工業高校附近が適地で、最盛期には五町歩位の栽培面積があったといわれ、また十六号バイパス際の雷電神社附近でも戦後まで栽培されていました。
江戸時代には、梅田ごぼうは主として岩槻・幸手宿に出荷され粕壁宿には安値のため余り出荷されず、特に幸手宿に多く出荷されていました。それは、幸手宿から江戸川を経由して江戸府内に回そうされていたからです。明治時代になってから、宮内省大膳寮に納入され、昭和初期まで続きました。
さらに、鉄道の発達により関西方面へも出荷するようになり、京都の円山公園内の高級料亭へも納品されたといわれています。
現在、梅田二丁目に梅田ごぼうの「種親」と呼ばれる金子家(当主は金子堅太郎氏)があり、江戸時代「ごぼう」の品種改良に成功して一躍「梅田ごぼう」を世におくった方で、代々種子の栽培が専業であったところから、「種親」といわれていました。
金子家では、大正8年頃まで「種親」の営業を続け、また金子堅太郎氏は、昭和8年頃までごぼうの種子作りをしていました。
金子氏の話では、戦後、宮内省の御用商人が金子家を訪れ「梅田ごぼう」を調査し、畑に栽培してあった「ごぼう」を見分け長さが30㌢位で太さが変化していない部分を掘りあげ、長さと太さが一定しているものを買い取って行ったことがあり、相場も市価の三倍ぐらいになったといわれています。「梅田ごぼう」の産地も、開発が盛んになり、その名残りもなくなってしまい、現在は、梅田東の女体神社入口際に「梅田ごぼう」宮内省お買い上げの記念碑が建立されています。

(ふるさと春日部『かすかべの歴史余話/梅田ごぼう』須賀芳郎/著 1977年~)

と書いています。

京都の高級料亭に、さらに宮中へ

このように、当地から出荷される太くて味の良い『梅田牛蒡』は当時、日本一と称され、京都の円山公園にある『芋蒡』という高級料亭にも直送納入されていたと言われています。その関係からでしょうか、明治時代から昭和初期頃まで、宮内省大膳寮に納入されていました。

『芋蒡』(いもぼう)とは、「平野家本家」なのでしようか?

京都・円山公園内知恩院に近い「平野屋本家」は、新島 襄と妻八重が両親と伴に家族写真を撮った後に会食したと言われる店で、「いもぼう」で知られています。

 ↓↓

京名物「いもぼう」平野家本家 京都円山公園

 

因みに、

牛蒡(ごぼう)

牛蒡を食用とする国は、日本と韓国と台湾だけだそうです。原産地の中国大陸やヨーロッパでは牛蒡は薬であり、食材として認識されてはいないそうです。古くは縄文~平安時代の間に漢方薬として伝わった牛蒡を、我が国が独自に食用として栽培を始め、江戸時代には全国で作られ、常食されるようになったと言われています。

日本のごぼうの産地(品種)

異論もあると思いますが、まとめると、

  • 滝野川牛蒡…長さ約1メートル、直径2~3センチ。長根ごぼうの代表品種。江戸初期から東京の滝野川付近で栽培され、現在の主流。
  • 堀川牛蒡…京都堀川で滝野川系ごぼうを特殊栽培。長さ約50センチ、直径6~9センチ。中に空洞があり、栽培に手間がかかるので、高価。
  • 梅田牛蒡…埼玉県などでわずかに栽培されている、太い品種。皮がゴツゴツしているが、肉質は柔らかく、香りがあって味が良い。ほとんど出回っていない幻のごぼう。
  • 大浦牛蒡…直径約10cmで、大きいものは4kgにもなる品種。中に空洞があり、断面は偏平で詰め物にする。千葉県八日市場市大浦で、成田山新勝寺献上用の契約栽培としてわずかに栽培されており、市場には出回っていない。梅田ごぼうは、品種的には大浦系と言われている。

梅田ごぼうについては画像がありませんが、大浦ごぼうについては、こちらのサイトをどうぞ。大浦系と言われる梅田ごぼうもこんな感じだったのでしょうか?

↓↓

[大浦ごぼう | 匝瑳市公式ホームページ 

大嘗祭

大嘗祭(おおにえのまつり)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。践祚大嘗祭ともいい、「おおなめのまつり」「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼びます。「だいじょうさい」のほうが馴染みがありますね。

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大正天皇即位の礼 (Wikipedia)

皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、大正4年(1915)11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定でしたが、同年4月に昭憲皇太后のご崩御により1年延期されました。大嘗祭は、同じく大正4年11月14日〜15日に行なわれました。当神社の記念碑は、この時のお買い上げを記念して建立したものです。

令和の大嘗祭

今年、新天皇即位に伴い、11月14日(木)夕から夜を徹して、天皇が一代で一度だけ臨む大がかりな神事の大嘗祭(だいじょうさい)が古式ゆかしく行われます。

因みに、昭和天皇の大嘗祭は、京都御所紫宸殿で行われ、現上皇さまの平成の大嘗祭は東京の皇居・東御苑で行なわれました。

令和の大嘗祭については、簡素に、と言う意見もあるようですが、今回も前回同様に皇居・東御苑で、この神事の用の「大嘗宮」を造って行なわれます。

純白の祭服を着た新陛下がほのかな明かりの中、中核儀式が行われる祭場殿舎の「悠紀殿(ゆきでん)」に入ります。また、白色の十二単姿の皇后さまら皇族方もご参列されます。

なお、皇位継承儀式の「即位礼正殿の儀」は、10月22日(火)、世界の150カ国から元首・首脳クラスの来賓を迎え古式通り行われます。自分としては、もう二度と見ることできない儀式なので、今から楽しみにしています。

 

最後に 

大正天皇の大嘗祭に、実際、梅田牛蒡が使われたかどうかは、この記念碑に拠るしかありませんが、今は、宅地化が進み耕作地も少なくなり、牛蒡を作っている農家さんもほとんど無くなり、「梅田牛蒡」は“幻のごぼう”となりました。

宮中行事に地元の食材が使われたことは、当時の人々にとって大変名誉なことだったのでしょうね。

令和になって新天皇即位に伴う儀式がまもなく行なわれます。100年前の儀式に当地のごぼうがお買上げになったことを知る人は少なくなり、関心もなくなりました。来月の即位の礼に続く11月の大嘗祭の折にでも「梅田ごぼう」のことを少しでも思い出していただければ幸いです。たかが“ごぼう”されど“ごぼう”なんです。

 

令和の時代にも日本のどこかで同じような「懸念碑」が建つのでしょうか?

 

ふと、思ったのですが、この記念碑は、もしかしてごぼうの形なのかもしれません。

 

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対岸から見た女體神社、1月に撮影したので雑草はありません

以上、4回にわたり、梅田の村社女體神社についていろいろ書いてきました。

ついつい文章が長くなってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

梅田の村社女體神社には力石とこんなものも…

他の神社と同じように女體神社にも力石があります。

力石

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力石

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力石の由来

昔の時代、梅田三部落「梅田東、梅田西、梅田新田」の村民達が交流を目的に力を競い合ったものです。

小さい石 五〇貫  187㎏

大きい石 八〇貫  300kg

豆知識  ※お寿司1貫=40g(木片を回すと表示されます)

お祭りのときにでも力自慢の村民が持ち上げたのでしようか。それにしても300kgとは…驚きですね。

 

そして、こんなものも…

三角点

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三角点.女體山

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三角点表示板

当社の位置は、

・北緯 35度59分10秒

・東経 139度44分53秒

・標高 8m80㎝

で、境内に「三等三角点」が設置されています。

こちらで確認してください。

↓↓

標高と緯度と経度 - 地図蔵

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三角点標石

三角点とは、「三角測量」を行う時に地表に埋定された基準点のこと。

「三角点」について、国土地理院のサイトには、

三角点は、地球上の位置(緯度、経度、標高)が正確に求められており、あらゆる測量の基準として、地図作成、地籍調査、道路建設・ダム建設等の各種公共事業等で使用されています。その数は、全国に約109,000点で一等、二等、三等、四等三角点と4種類に分類されます。一等~三等三角点は、そのほとんどが明治時代に設置され100年以上にわたり地図作成・測量の基準として利用されてきました。また、四等三角点は、現在でも市町村等が国土調査(地籍調査)を実施するために必要な基準点として設置しています。
 三角点の成果値である緯度・経度(座標値)は、柱石頭部「+」の刻字の中心位置、標高は柱石頭部の上面です。

↓↓

三角点の役割|国土地理院

 

また、経度・緯度の基準になるのが「三角点標石」、そして高さの基準になるのは「水準点標石」です。その数は、基準水準点・一等水準点・二等水準点・三等水準点を合わせて約22,000点あります。

さらに、「三角測量」について、

明治時代に距離を正確に測る方法は巻き尺しかありませんでした。3km~10km離れた平坦な場所にある2点間の距離を正確に測り、もう1点を加えて三角形を作り、三角形の内角を測ります。この1辺と内角から三角形の大きさと形を計算で求めます。さらに点を増やして三角形の内角を測ります。こうして三角形の網を作り、三角形の各点の位置を求めていくのが三角測量です。

↓↓

三角点の測量|国土地理院

 

我が国で、初めて三角測量が行なわれのは、明治5年(1872)、そして同8年(1875)から本格的に三角測量が行なわれるようになりました。

なお、三等三角点は、全国に約3万2000箇所(点)、約4kmの間隔で設置されています。柱石の材質は御影石(花崗岩)で、一辺は15cm。破壊や破損に備えて、柱石の直下に盤石が埋設されています。

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真上から見た標石

ご興味があれば、こちらもどうぞ、とても参考になります。

↓↓

京都市青少年科学センター | Kyoto Municipal Science Center For Youth


話が少し横道にそれますが、浅野忠信さん、香川照之さんが出演した2009年公開の映画『劔岳 点の記』(原作浅田次郎)でこの三等三角点標石の「剱岳」山頂への埋設の奮闘が描かれています。山岳映画としても素晴らしい映像の映画でした。

 

ところで、この神社の三角点の表示板ですが、

当神社の緯度経度は前記の通り、

・北緯  35度59分10秒(35°59′10″ )

・東経  139度44分53秒(139°44′53″)

・標高 8m80㎝

ですが、設置されている表示板には、

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三角点表示版

「北緯35°59′′10′」となっていて、よく見ると、分「′」と秒「′′」が逆ではないかな、と思いますが。

誤記なんでしょうか?? わかりません…

 

知らないことばかりなので、専門のサイトにリンクを貼りました。詳しくはそちらをご覧ください。

 

映画の原作は

新装版 劒岳 ―点の記 (文春文庫)

新装版 劒岳 ―点の記 (文春文庫)

 

kindle版

劒岳〈点の記〉 (文春文庫)

劒岳〈点の記〉 (文春文庫)

 

 

続く…

梅田の村社女體神社にある高さ1.8メートルの富士塚⁉

女体神社の境内は、あくまでも村の鎮守なので、あまり広くはありません。

社殿の隣には、朱い鳥居と小さな富士塚が、そして様々な神さまが祀られています。 

富士塚 

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富士塚の全景

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高さは1.8メートル

富士講 

江戸時代に富士山(3,776メートル)を霊峰と仰ぐ信仰が広まった。これが「富士講」といわれる「代参講」である。「富士講」は戦国時代の行者、長谷川角行(はせがわ・かくぎょう)を伝説上の開祖として、富士山の麓、富士吉田市の浅間神社を本社としている「講」。

江戸時代に流行し、中期以降は、食行身禄(じきぎょう・みろく)・小谷三志(こだに・さんし)らの優れた行者が江戸を中心に広めたため、埼玉・千葉などの関東周辺に広まった。代参の人たちは、先達と称される人に率いられ白装束で吉田口から富士山に登拝したが、それができない講員のために自分たちで富士山に見立てた小丘(築山)を築き、富士浅間神社を勧請した。毎年夏(7月1日)の山開きの頃に、講員はこの小丘に登り、遥かに富士山を拝んだようである。

浜川戸の八幡公園内の富士塚のように、合目を記した本格的なものもある。
この神社にある高さ1.8メートルの「富士塚」は、丸参講によって、明治25年(1892)に築かれたものである。明治25年10月銘角行食行霊神石祠(せきし)あり。(『春日部市史/第6巻/民俗編』)

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丸参講の碑

関連の過去記事

www.takejii.xyz

 

石祠

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左「浅間神社」・右「磐長姫命」

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浅間大神

※浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)

「浅間」を社名に持つ神社。富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社である。 

※木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)

日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。
オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。 

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磐長姫命

磐長姫命(イワナガヒメノミコト)は、オオヤマツ神の娘で木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメミコト)の姉、岩のように堅固で永久不変なことを象徴する女神。美人といわれた妹と違い醜女だったとされています。名前に「磐」の字を当てるのは常磐(ときわ)の意味で、常に青々としてめでたい常盤木などと使うように、そこには生命長久の観念が込められています。岩石といういかにも堅い無骨なイメージがありますが、このことこそがこの神が寿命長久の神とされる所以です。

『古事記』によると天孫ニニギが外見にとらわれ寿命長久の神の姉を選ばなかったことが、天皇の寿命が短くなった原因とのことです。

 

角行食行霊神

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草が生い茂って見えません

ということで、以前撮った写真を

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角行食行霊神

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碑陰(裏面)には明治25年10月銘

※角行(かくぎょう)

天文10年1月15日(1541年2月10日)~正保3年6月3日(1646年7月15日)、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。

※食行身禄 (じきぎょう・みろく)

1671~1733 江戸時代前期-中期の富士講行者。寛文11年(1671)1月17日生まれ。江戸で油商として成功。17歳のとき富士講5世の月行劊忡(げつぎょう・そうじゅう)に入門。加持祈祷中心の村上光清(むらかみ・こうせい)の光清派を批判し、実践倫理を重視する身禄派をおこす。「身禄(弥勒(みろく))の世」の到来を予言し、富士山で断食入定(にゅうじょう)、「烏帽子岩三十一日之巻」を口述し、享保8年(1733)7月17日絶命。63歳。伊勢(三重県)出身。俗名は伊藤伊兵衛。その後、開祖角行とともに、富士講の信者の崇敬を集めた。身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(現埼玉県川口市)の小谷三志の不二道があり、教派神道の実行教、直系は丸山教となって今日に至っている。

※小谷三志(こだに・さんし)

生年: 明和2年12月25日(1766年2月4日)~天保12年9月17日(1841年10月31日)。江戸後期の不二道の開祖。「こたに」ともいう。武蔵国鳩ケ谷(埼玉県)生まれ。本名小谷庄兵衛。文化6(1809)年江戸に出て、富士講2代目教主の伊藤参行に入門、禄行三志の行名をもらう。三志は富士講身禄派の祖食行身禄の教説を日常的な倫理観に高め、天保9(1838)年に、それを「不二道」と称し,京に上り公家や文人と交際してその公認を目指した。富士講の男女平等思想をさらに徹底し、日常生活の服装,労働,性交渉などにおける男女の役割を逆転,「おんながだんなにな」るのを「みろくのみ世」として理想とした。高山たつを伴って、禁制の女人富士登頂を強行した。また,信者の社会事業への労力奉仕も勧め多数の信者を得た。

参考文献:『富士講の研究:江戸庶民の山岳信仰』岩科小一郎/名著出版/2000、『神の民俗誌』宮田登/岩波新書/1979、『朝日日本歴史人物事典』解説(浅野美和子)

 

その他の石祠

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稲荷大明神

稲荷社の右側の石碑を拡大すると

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「悪病除祭」(百万遍)の神饌料「金弐百円」

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碑陰(裏面)には昭和17年9月の銘

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浅間神社・天満宮・猿田彦大神

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「天満宮」は、学問の神、御祭神は菅原道真公

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「猿田彦大神」は、道の神、御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト) 

猿田彦命といえば、天孫降臨神話に登場する神です。そして猿とも天狗ともいわれる怪奇な風貌からある意味、結構人気のある神様です。

そして、

「鼻の長さが七咫(ななあた、約120㌢)もあり、背の丈は七尺(約2メートル)あまりで、身長は七尋(約12.6メートル)に近い。さらに、口と尻は明るく光っていて、

目は八咫鏡(やたのかがみ)の如く丸く大きく、まるで真っ赤な酸漿(ほおずき)のように照り輝いている」、と『日本書紀』一書(あるふみ)の一に描かれています。

そして天孫降臨の際、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天の八衢(やちまた)まで出迎え、先導して日向の高千穂まで導いたとされています。このことから猿田彦命は導き、すなわち道案内の神とされ、後に道祖神として崇められるようになりました。さらには、猿田彦信仰は、道祖神信仰の性にまつわる部分だけを取り出した形で、古代の性器崇拝と結びついた金精様とも結習合し、男女の縁結び、子宝、安産、下の病や性病などに霊験があるとされ、金精様が祀られる神社にはこの猿田彦命が祭神とされることが多いとされています。(参考:『「日本の神社」がよくわかる本』戸部民夫、PHP研究所、2004/1/21)

 

いかがでしたか?

 

身近な村の鎮守にもいろいろ興味深いものがありますね。

 

時間があれば、お近くの神社に行ってみませんか。きっと新しい発見があると思います。

 

続く…

 

 

 

 

梅田の村社女體神社の創建は平安時代だった⁉

かすかべには、牛島地区と梅田地区の2ヶ所に女體神社があります。今回は、そのうちの一社、梅田の女體神社のことを…

古隅田川に架かる十文橋を渡った地域は、かつて「内牧村梅田」と呼ばれていたところです。 

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十文橋から見た古隅田川 草刈りはこれから?

明治22年(1889)4月1日、内牧村と梅田村のニヵ村が合併し、「南埼玉郡内牧村」となり、さらに昭和19年4月1日に粕壁町と内牧村が合併、「粕壁町」となりました。

まずは、地名のことから

「埋めた田」から「埋田」そして「梅田」に

この梅田という土地は、日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地であり、村の開発に当っては低湿地を埋め立て、耕作地にしていったといわれています(説明板にも)。

地名について、川の流域を埋めて耕作地にしたことから、“埋めた田”、すなわち“埋田”、転じて「梅田」となったという説と、古隅田川のもう少し上流の新方袋というところに、謡曲『隅田川』などで知られる「梅若伝説」があり、その梅若の「梅」から梅田となった、という説があります。さてどうなんでしようか。

民俗学者の柳田国男は、その著書『地名の研究』において、地名を発達史的に捉えて、

  • 最初は開発しようとする土地の地形・気象・動植物などの特徴をとらえて命名する(利用地名)。
  • 次に、領域拡大に伴い伴って住民が土地を専有していく過程でその土地毎に命名していく(占有地名)。
  • そして、最後にこれらを巧みに利用すべく土地を分割し、それぞれに地名をあてる(分割地名)。

と3つに分類しています。

従って、梅田の地名も村の成り立ちを物語る利用地名の“埋め田”だったのではないでしょうか、神社の説明板も「埋田」となっています。そして、好字の“梅”が当てられと考えられます。あくまでも推論ですが。

また、梅田の地内は、梅田東・梅田西・梅田新田の三つに分かれており(これらは分割地名?)、女體神社はそのうちの梅田東の鎮守として祀られています。

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古隅田川の遊歩道

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対岸は市立春日部中学校

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何やら朱い鳥居が

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東武スカイツリーラインの鉄橋

十文橋から古隅田川沿いに遊歩道を少し歩くと、右手に見えるのが、朱い鳥居のある「村社女體神社」です。

村社女體神社

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女體神社鳥居

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村社女體神社

なお、「村社」とは、戦前までの旧制度の社格の一つで、「郷社(ごうしゃ)」の下、「無格社」の上。多くは村の鎮守の社などが列格され、社掌(しゃしょう)が置かれていました。当女體神社は明治6年4月「村社」に列格。昭和24年5月31日「宗教法人」登録。

県道(春日部・久喜線)側から見ると

その裏側は説明板

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女體神社

 日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は、「埋田」の意である。梅田東・梅田西・新田の三つに分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。

 醍醐天皇の延喜元年901)の創立で、当時、梅田に住んでいた織部という人が、村内の子共が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し、国産みの神である伊邪那美(いざなみ)尊を産土神として祀ったのが当社の起源。古隅田川の北岸の最も高地に当たる場所(現在地)に社殿を造営し、祭事を行なったという。また、元和八年(1622)に二代将軍徳川秀忠が始めての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金千疋の寄付があり、以来、近隣の信仰を集めて大いに栄えたと伝えられてい。

 当地の土壌は、牛蒡の栽培に適し、太くて味の良い「梅田牛蒡」が出来ることで知られている。

祭典

一、元旦祭(一月一日)  

ニ、新年祭(一月ニ一日)

三、百万遍・悪病除祭(五月一日)

四、初山・浅間神社(七月一日)

五、例祭・夏祭り(七月十五日)

六、大例祭・おくんち(十月九日)

七、新穀感謝祭(十一月ニ六日)

平成十七年十ニ月吉日  梅田東氏子会

説明板は門柱(社号標)の脇にもありますが、色が褪せて読みにくいため、道県(道春日部・久喜線)側の説明板を使いました。

今も昔も女性が子共を生み育てることは大変なことに変わりません。疫病など流行り病で亡くなる幼子が多かったことは容易に想像できます。

創造神で万物を生み出す女神、伊邪那美尊を産土神として祀ったことは、社名からもよくわかります。女體神社はそんな村の鎮守なのです。

なお、産土神(うぶすなかみ、うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)とは、  

日本の神の区分のひとつ。単に産土ともいう。産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。(Wikipedia)

織部という人は梅田地区に住んでいたようですが、単に「織部」という人なのか、「◯◯織部」なのか、「織部◯◯」なのか、口碑なのでもちろんわかりません。

もしかしたら、織部司(おリベのつかさ)という役所の役人か、あるいは元役人だった人かもしれません。あくまで想像ですが、想像するだけで楽しいですね。 

※織部司(おりべのつかさ)とは、

律令制で、大蔵省に属し、錦(にしき)・綾などを織り、また、染め物をつかさどった役所。おりべのつかさ。(デジタル大辞泉)

※疋(ひき/ひつ/き・匹)とは、

鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、100疋をもって1貫とした(この方式によると1疋=10銭(文)となるが、疋と銭(文)を併用する慣例はなかったとされている)。また、初期の頃には1疋に換算する銭貨の数は定まっておらず、『徒然草』には1疋=30文とされている。1疋=10銭(文)とされたのは犬追物に使う犬1疋(匹)の値段が10銭(文)だったからという伝説がある(『奇異雑談集』・『貞丈雑記』など)。

通貨単位の貫は1000文、100疋に相当する。これらを区別するため、質量単位の方を貫目(かんめ、一貫分の目方の略)、通貨単位の方を貫文(かんもん)という場合もある。(Wikipedia)

『新編武蔵風土記稿』の梅田村の項に、

「◯雷電社 末社 稲荷 ◯女体社 二社ともに村の鎮守、以上粕壁宿仙乗院持」

と載るように、明治期の神仏分離までは本山修験の仙乗院が当社及び雷電社の別当になっていました。なぜ、地元の寺院ではなく、粕壁宿の寺院が別当であったのかは、仙乗院が、第二世長雅の寛永9年(1631)に粕壁宿に移転するまでこの梅田村にあったためとのことです。なお、仙乗院というお寺は明治期に廃寺となり今はありません。

※別当(べっとう)とは、

神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。別当寺(べっとうじ)とも。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。(Wikipedia)

『武蔵国郡村誌』には

女体社、「村社」村の東方にあり伊弉冉尊を祀る。祭日十一月十五日  

と載っています。

また、説明板・祭典に「百万遍」とありますが、百万遍は、悪病除けの行事であり、正式には「悪病除祭」といいます。元来(戦前まで)は、大人用と子供用の二つの「数珠(じゅず)」を荒縄で作り、鉦(かね)に合わせて「ナイダー、ナイダー」と叫びながら子供、大人の順で数珠を担いで氏子の家を一軒一軒回ったものでした。数珠の大きさは、広げると大人用が八畳分、子供用でも六畳分あり、全戸を回り終えると、古隅田川に架かる梅田橋の上から鉦・御幣(ごへい)と一緒に数珠を川中に投げ込んで、当社の社務所で年当番が用意した小豆飯やけんちん汁を御馳走になったそうです。しかし、戦争の激化により、物資が不足してきたため昭和16年が最後となり、翌年からは祭典だけを行うようになリました。

「参考:『埼玉の神社北足立、児玉、南埼玉「女體神社」』(埼玉県神社庁)」

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社殿・正面

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社殿

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元禄2年(1689)銘があるといわれる鰐口(わにぐち)なのでしようか?

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参道左側にある天保6年(1835)に榛名山太々講中が奉納した手水鉢

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参道右側の手水鉢

その他、宝暦2年(1752)銘の金幣(きんぺい)、寛政11年(1799)の社殿再建時の棟札などがあるそうです。

 

[女體神社]

 

 

続く…



 

 

 

 

 

 

市指定有形文化財の「やじま橋」は埼玉県内最古級の石橋⁉

在原業平朝臣が渡ったという伝承をもつ「業平橋」と同じく古隅田川に架けられていた橋に「やじま橋」という石橋がありました。

この「やじま橋」、昭和59年(1984)3月の改修工事の際に撤去され、今は近くの古隅田公園に移築され保存されています。もちろん今は、橋の下に川はありません。

また、「やじま橋」は埼玉県内で現存する最古の石橋の一つとされ、昭和60年(1985)2月26日に春日部市の指定有形文化財に指定されています。

ということで、今回は「やじま橋」のことを……

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やじま橋

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立派な石橋

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左端

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説明板

やじま橋

  この橋は、市内南中曽根と岩槻市小溝の間を流れる古隅田川に架けられていたものですが河川の改修工事により現在地へ昭和五十九年三月に移築されたものです。橋は元文二年(西暦一七三七年)今から二四七年前)に構築された埼玉県内で最も古い石橋のひとつとされ、橋板・橋脚・橋桁・岸壁いづれも石造りで、中でも橋板には長方形の大石十八枚を敷き、その一枚に「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」の銘文が刻まれています。

  橋の由来については、古来より「やじま橋」と呼ばれ「矢島橋」「八島橋」とも書かれてきました。いづれが正しいかは定かではなく、また地元の有力者の矢嶋氏、あるいは谷嶋氏(現在も矢島姓は現存)が中心になって造営にあたったからこの名があるという説もあるなど確証はありません。

  江戸時代この春日部市豊春地区は岩槻領に属しており、特に粕壁から岩槻に通じる唯一の道になっていたので人馬の往来も多く、藩政上きわめて重要な役割を持っていたようです。
 この橋が今日まで当時の姿をそのまま残していることから堅個な設計と高度な技術によって完成されたことがわかります。
 この橋に使われている石材は安山岩類の新小松石で、(俗に真鶴(まなづる)小松とも呼ばれる)産地は神奈川県真鶴地方で、この石は江戸時代広く土木建築面で利用され、特に江戸城構築時の石垣などとして使用されていてことから、御用石(ごよういし)とも呼ばれています。なお、この銘文にある永井氏とは信州飯山城主を経て、正徳元年(西暦一七一一年)岩槻城主となった永井直敬(ながいなおひろ)をはじめとして、以後尚平(なおひら)・直陳(なおのぶ)と三代四十五年間当時禄高三万二千石の岩槻城主をつとめ、宝暦六年(西暦一七五六年)美濃加納城主に転じた永井氏のことです。

   昭和五十九年三月

     春日部市教育委員会

     春日部市文化財調査委員会

光線の関係と手すりが前にあり、大変読みにくい説明板ですが、何とか文字起こしすることができました。

 

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後ろには工事用のフェンスが

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橋板

かつての「やじま橋」が架かっていた場所は、旧鎌倉街道筋であり、明治21年10月下旬に開通した「岩槻新道」(旧16号)のできるまでは、この道が唯一の道路でした。俗に「岩槻古道」とも呼ばれ、この橋も昭和の中頃まで利用されていましたが、宅地開発が進みこの橋の際に新しい橋が架けられて、橋は撤去・移築されました。

「やじま橋」は、今から282年前の元文二年(1737)時の岩槻城主、永井伊賀守直陳(なおのぶ)の命により道順川戸村の名主、矢島氏(現八嶋氏)が新方庄・上蛭田村・徳力村等沿道の者から浄財と労力を集めて架けられたものと言われています。
かつての橋の位置は太田庄と新方庄の境界にあり、貴重な奥州街道の道筋でした。
橋の構築にあたっては地盤が軟弱のため難工事で、橋脚の沈下を防ぐため水中にある最下部には栗材や松材の丸太を幾重にも井形に組み、基盤を造ったとされ、その上に何百貫という石柱(橋脚)と梁を組み立て、長方形の石(タテ1.8㍍、ヨコ0.4㍍、厚さ0.06㍍)を18枚使用し架けられたものです。

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橋板・立入はできません

説明板にある通り、その中の一枚の裏側に次のような文字が刻まれています。
「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」
この文字は、「橋が永井氏の志により架けられたものであり橋脚を鶴の足にたとえ、橋板を亀の甲羅に見立てて鶴亀となし、幾久しく後世に残れ」と願って刻まれたものと思われます。
昔、この街道が利用されていた頃、この辺りは岩槻藩の重要な位置であったので、橋の際(きわ)には太田庄(後の百間領)の番所や晒場(さらしば)が置かれ、また通行人相手の家があったそうですが、明治期、岩槻新道の開通により人家も移転し、田圃の中に忘れ去られた場所となりました。 

参考:「広報かすかべ昭和53年6月」かすかべの歴史余話)

※百間領(もんまりょう)、現在の南埼玉郡宮代町、春日部市の一部、さいたま市岩槻区の一部、白岡市の一部、久喜市の一部に相当する近世における武蔵国埼玉郡の地域名(領名)。

※晒場(さらしば)とは、江戸時代、罪人をさらしの刑にした場所。

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やじま橋ヘ

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古隅田公園

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堤防上へ

現在、「やじま橋」が保存されいる「古隅田公園」は、古隅田川の堤防上にある公園です。堤防の南端には「巡礼供養塔」(享和3年、1803)、「馬頭観音」(寛政4年、1792)、「天王宮」(寛政3年、1791)などの石塔が祀られています。

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左手前:馬頭観音 中央:巡礼供養塔 右奥:天王宮

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巡礼供養塔

この内、道しるべを兼ねている「巡礼供養塔」には、「右かすかべ、左こしがや」と刻まれています。

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天王宮

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馬頭観音

また、「馬頭観音」には、「金野井川岸 馬持講中」とあります。金野井川岸とは江戸川右岸の西金野井地区にあった河岸場のことです。

これらの石塔も元は「やじま橋」を通る道筋にあり、この旧堤防が遠く江戸川の河岸場と粕壁宿や岩槻宿とを結ぶ街道の役割を果たしていたことが伺えます。

 

この場所は、駅からは少し距離があるので、訪れる人はあまり多くはないと思いますが、先人たちが遺した貴重な文化財として後世に残していってほしいと思います。

 

 [古隅田公園]

世界のミフネゆかりの建物でランチ⁉

お盆休みが終わり、残暑ですが、暑さもようやく和らぎ、少しのぎやすくやりました。

国道新4号バイパスを越谷から春日部方面に行くと古利根川を渡ってすぐのところに「天下一うどん味亭(あじわいてい)」というお店があります。

このお店の建物は、あの世界のミフネこと俳優の故三船敏郎氏ゆかりの建物とのことです。

以前、テレビで紹介されたことがあり、一度は行ってみたいと思っていました。今回は、6月にランチを食べに行った時のことを……

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天下一うどん味亭の入口

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建物全景

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建物入口

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店舗入口の説明板

三船敏郎氏ゆかりの建物

味亭の建物は日本の伝統的建築思想のすばらしさを残していきたいとの思いで、俳優の三船敏郎氏ゆかりのお宅を、秋田県鳥海山麓より移築・増築したものです。築後百二十年経つといわれており、現在の家屋では見ることの出来ない立派な部材(栗の土台、けやきの大黒柱をはじめとする柱、梁など)が随所に見ることができます。

写真が飾ってありました。

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三船敏郎氏ゆかりの建物

写真の説明はもう少し長文でした…

三船敏郎氏ゆかりの建物

味亭の建物は日本の伝統的建築思想のすばらしさを残していきたいとの思いで、俳優の三船敏郎氏ゆかりのお宅を、秋田県鳥海山麓より移築・増築したものです。築後百二十年経つといわれており、現在の家屋では見ることの出来ない立派な部材(栗の土台、けやきの大黒柱をはじめとする柱、梁など)が随所に見ることができます。こうした柱、梁などは囲炉裏からでる煙で燻され、次世代の桑、けやき、杉などが育成される百年近くの期間を家としてまっとうできるようになっております。こうした樹木の生命サイクルと同期化する日本伝統の建築思想ならびに生活の知恵を伝えてくれます。

店内は

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店内

もう一つ写真が飾ってありました。

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三船敏郎ご夫妻の他、俳優の三橋達也さん?そして梅宮辰夫さん?が写っています。

お店の脇には立派な門園がありました。

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庭園入口の門

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庭園内

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6月末でしたので紫陽花が

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池が

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錦鯉が泳いでいました

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日替わり御膳


三船敏郎は「世界のミフネ」と呼ばれる日本が誇る国際的なスターでした。外国映画でも堂々と日本人を演じ、その存在感は抜群。まさにサムライそのもの。自分も若かりし頃ワクワクしながら映画を観た記憶があります。三船敏郎のような国際的スターは、おそらく日本では、もう出てこないと思います。本当に古き良き時代でした。

自分の好きな三船敏郎出演作品

邦画では、

  • 七人の侍
  • 用心棒
  • 椿  三十郎
  • 天国と地獄
  • 赤ひげ
  • 男はつらいよ知床慕情

外国映画では、

  • グラン・プリ…共演者:イブ・モンタン、ジェームズ・ガーナー
  • レッド・サン…共演者:アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン

 

ところで、このお店は、埼玉県・千葉県・東京都を中心に住宅事業を展開するハウスメーカーのポラスグループ(POLUS)が経営するお店とのこと。

もしかしたら、創業者の故中内俊三氏が三船敏郎のファンだったかもしれませんね。あくまで推測ですが。

 

[天下一うどん味亭]