かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

春日部八幡神社の気になるスポット★あれこれ⁉️

ローカルネタですが、もう少し、お付き合いください。
春日部八幡神社には、他にも気になるスポットがいくつかあります。この春日部八幡神社については、多くの方がブログに書いていますので、自分は、マニアックかもしれませんがあまり目立たないスポットを中心に愚考してみました…

気になるスポット

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手水舎

手水舎(てみずや、ちょうずや)

ごく普通の手水舎です。神社に参拝の際には、心身を清めるため、まず行なう作法は手水をすることです。

そのため一番最初に訪れるのが、水盤がある手水舍(てみずや、ちょうずや)と呼ばれる場所です。今まで、手水舎を「ちようずや」と読んでいましたが、神社本庁のサイトには、「てみずや」とありました。

神社本庁のサイトには、手水の作法が掲載されていますので、参考までに、

  • 右手で柄杓ひしゃくを取ります。
  • 水盤の水を汲み上げ、左手にかけて洗います。
  • 柄杓を左手に持ち替え、水を汲み上げ右手を洗います。
  •  再び柄杓を右手に持ちかえて、左手のひらに水を受けて溜めます。
  • 口をすすぎます。柄杓に直接口をつけないようにしましょう。静かにすすぎ終わって、水をもう一度左手に流します。

↓↓

参拝方法 | 神社本庁

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力石

力石

粕壁宿にある神社では、力石もよく見かけます。この春日部八幡神社の境内では、昔、角力会(奉納相撲?)もあったようですので、その時にでも、力自慢の人たちが力比べをしたのでしょうか。

神社の「力石」(ちからいし)を見ると、江戸時代に活躍したと言われる武蔵国岩槻領三野宮村(現在の越谷市)出身の力持ち、三ノ宮 卯之助(さんのみやうのすけ)を思い浮かべます。何しろ越谷出身なので身近に感じます。今でも越谷市の埼玉県立大学付近に三野宮という地名があります。

なお、卯之助の正式な名前は「三野宮村の卯之助」が正しく、「三ノ宮」は名字ではなく通称なのだそうです。当時、庶民には名字は無かったんですね、

また、卯之助は江戸時代の力持ち番付では大関だったと言われています。そして、後には、日本一にもなりました。

そのため、地元越谷の神社はもちろん、鎌倉の鶴岡八幡宮や江戸・深川の富岡八幡宮などにも卯之助が持ち上げたと言われる力石が残っています。以前、「ブラタモリ」でも視た記憶があります。

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灯籠

石灯籠

社前御神木の前にあるこの石灯籠には、十二支や『新方鎮守社』と刻まれているそうです。また、天保三年(1832)とも。十二支は確認できましましたが、文字は読めませんでした。

石碑・二基

石絵馬

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石絵馬

末社、天神社の前に高さ約二メートル・幅約一・五メートル程の自然石の「石絵馬」があります。

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馬が数頭

石碑に馬の絵が描かれているものです。もちろんほかの神社にもありますが、こちらの絵馬は結構躍動感があります。

この「石絵馬」の碑文は、粕壁宿の名主・関根次郎兵衛孝凞のもので、絵馬の上には、

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春之日乃 野部之母里能下草爾 不整駒毛睦志九古曾

安政三年十一月晦日   七十三翁  孝熈  志主青木三吉

と歌が刻まれています。

安政三年は西暦だと1856年、幕末ですね。前年の秋には「安政の大地震」といわれる、江戸直下型の大きな地震がありました。武蔵国も震度5〜6の揺れだったそうです。以前のにも書きましたが、地上も地下も動乱の時代でした。

 

榎本武揚の篆額

また、駐車場の傍らにはこんな石碑が、

 

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駐車場の片隅に

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榎本武揚の篆書

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松園敬甫翁碑

「松園敬甫翁碑」 従二位勲一等榎本武揚篆額

翁諱敬甫松園氏武蔵国粕壁之人文化五年辰正月生聖護院、下命变本山修験正大先達不動院霞下準年行事權大僧都法印號、仙乗院特許黄服蓋異數也登大峰葛城七回攀木曾御嶽廿七回維、新両部判而遷梅田村女軆雷電兩社神職補大講義翁性行篤實餘、暇習字讀書以教育児童諄々不倦闔郷頼其徳

明治一八年一月廿、七日病而卒齢七十七配野上氏先卒男四人女五人四男恭光継家為同郷社神職

明治二十六年九月門弟子相謀建此之碎巖高森敏撰併書
裏面に百四十八名の名を記す。

( ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)

この石碑は松園敬甫という方の顕彰の碑です。また、この石碑は駐車場の奥にひっそりと建っていますので、ほとんど誰も気が付かないと思います。

篆書を書いたのは、あの榎本武揚(えのもとたけあき)です。榎本武揚と言えば、旧幕臣で、いわゆる「五稜郭の戦い」で旧幕府軍を率いて戦ったことで知られています。

榎本武揚については、こちらのブログがとても参考になりますので、どうぞ、

榎本武揚とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 | 歴史上の人物.com

松園敬甫という方は、修験者で、小渕の不動院の「霞」に属していたようです。なお、「霞」とは、京都・聖護院を本山とする本山派が修験者を統制するための国あるいは郡単位の地域組織で、修験道のための道場のようなものだそうです。

小渕の「不動院」が出てきましたので、少し補足を。

『新編武蔵風土記稿』には、

本山派修験、京都聖護院末、関東修験年行事職大先達なり、役流山と号す。本尊不動は役行者神変大菩薩のなた作りと称す、刀斧の痕凡作にあらざること知らる、開山直参法印秀圓天文十三の年【一、五四四】二月二十九日寂す。北条氏政其外古文書を蔵す、御入国時も先例に依って年行事職元の如く命ぜられ、慶安元年【一、六四八】
寺領百石の御朱印を附せらる。今も東照宮御下知状及御書を蔵せり、祖師堂・八幡社・天神社・愛宕社・山王社・稲荷社。

(ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)

と記されています。

小渕の符同意は江戸時代までは、関八州の修験道の総本山だったとのことですが、京都・聖護院に属するは本山派は、明治維新後の「神仏分離令」および明治5年(1872年)の「修験宗廃止令」によって、天台宗に強制的に統合されることになりました。そのため、小渕の不動院も明治末から大正初めにかけて東京・江東区南砂町に移転しました。

詳しくは、春日部市教育委員会文化財保護課・郷土資料館のブログ「ほごログ」をどうぞ、

↓↓

日誌 - 春日部市視聴覚センターブログ

 

また、碑文には、仙乗院云々とも記されています。仙乗院は本山派の修験の寺だったようですが、廃寺になっていて今はありません。

そして、奈良の葛城山(金剛山)に7回、木曽の御嶽山に27回に登ったことや梅田の女體神社、同雷電神社との関係も刻まれています。

松園敬甫氏は、明治18年に亡くなり、四男である当春日部八幡神社の神職の松園恭光氏が跡を継いだと刻まれています。今から120年以上も前のことです。

駐車場の片隅にひっそりと建っている石碑から色々なことがわかりました。面白いですね。

それにしても、肝心の榎本武揚との接点は?

気になります…

 

春日部八幡神社にあるスポットでいろいろ愚考を重ねてみました。身近なところにも郷土の歴史を知ることが出来る“モノ”が遺っていることがわかりました。

 

 

 

 

春日部八幡神社のパワースポット:御神木の大銀杏

春日部八幡神社の境内にあるパワースポットは、なんと言っても御神木の大銀杏でしょうね。今回は、その大銀杏について。

春日部八幡神社の大銀杏

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御神木の大銀杏

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樹齢は約700年?

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昔は3本の銀杏があったとか

伝説は

境内にある説明板には、

鎌倉の鶴岡八幡宮の銀杏の木の一枝が飛んできて一夜にして大木になった。

また、春日部八幡神社のサイトにも

参道中央部に空高くそびえる大銀杏は、鶴岡八幡宮の御神木の一枝が飛び来たり、一夜のうちに繁茂したと伝えられています。

とあります。

このようなお話・伝説は、かすかべに限らず、全国各地にも結構あるのではないでしょうか。

でも、一夜と言うのは… 

それは後ほど。

 

御神木に不敬にならないように、少し考えてみました。

御神木に銀杏が多い理由

粕壁宿にある神社の御神木には、銀杏が多く見られます。「八坂香取稲荷合社」、「東八幡神社」、それと「秋葉神社」の夫婦松の一方の木は銀杏でした。

確か、東京・浅草の浅草寺境内にも、あの源頼朝が戦勝祈願に訪れて参拝時に挿した枝から発芽した、と伝わる銀杏があった(?)と記憶しています。

それでは、一体何故、神社に銀杏が植えられているのでしょうか。

それは、

  • 銀杏は幹や葉に水分を多く含んでいるため火事に強い。「銀杏は水を吹く」とも。
  • 銀杏は油分を含み水はけがよく、材料も均一で加工性に優れ、歪みが出にくい特質を持つので、神社の家具・建具をはじめ、構造材・造作材などの補修材として広範に利用されている。
  • 銀杏の実(ギンナン)は、食料にもなる。ただし、食中毒(銀杏中毒)の危険性も指摘されているので、注意が必要。健康な一般成人では、適切な量であれば食用として安全である。
  • 銀杏の乾葉は防虫剤として用いられる。
  • 喘息等の症状に対する鎮咳去痰作用など薬草としての効力もある。

などなど、多くの説があります。

でも、神の依代として尊崇の念を持って銀杏を植えたのが一番の理由なのでしようね。

また、

鎌倉から飛んできた一枝…

前述のとおり、春日部八幡神社の御神木の大銀杏は、鎌倉の鶴岡八幡宮から飛んできた一枝が一夜にして大木になったと伝えられてきました。

鶴岡八幡宮の大銀杏といえば、樹齢1,000年を超えるとされる鎌倉・鶴岡八幡宮のシンボル的な樹ですよね。 

「七里ヶ浜の磯づたい~」で始まる文部省唱歌「鎌倉」にも「由比の浜べを右に見て雪の下村過行けば、八幡宮の御社。上るや石のきざはしの左に高き大銀杏〜」と歌われていました(古いなぁ)。

また、この大銀杏は、鎌倉時代に、三代将軍源実朝の暗殺の舞台になったとも伝えられ、「隠れ銀杏」と呼ばれていました。

ところが、この鶴岡八幡宮の大銀杏、平成22年(2010)3月10日の早朝、強風にあおられで根元から倒れ折れてしまいました。ニュースになりました。

その後、鶴岡八幡宮に参拝の機会がありましたが、根元だけ残った無残な銀杏を見ました。

でも、鎌倉市民をはじめ、鶴岡八幡宮の関係者の皆さん、そして樹医さんなど専門家のご支援を受け、再生に向けた取り組みが行われ、今は、大銀杏の木は少しづつ元気な姿を取り戻しつつあるそうです。

それにしても、凄い生命力。この生命力こそ、銀杏が神社の御神木として植えられている大きな理由なのかもしれません。

春日部八幡神社の銀杏の木は、鶴岡八幡宮の大銀杏の一枝と言われていますので、鶴岡八幡宮の大銀杏のいわば子孫と言っていいでしょう。

鶴岡八幡宮の大銀杏の倒木の時に、春日部八幡神社の銀杏の里帰りの話しはあったのでしょうか。もちろんそんなことはありませんでした。

一夜にして大木に…

ところで、「一夜にして…」ですが、科学的には、あり得ない話しですよね。食べ物では「一夜干し」、「一夜漬け」などがありますが。

豊臣秀吉の小田原攻めの時の一夜城「石垣山城」が有名ですが、この「石垣山城」は、小田原攻めの際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木をあえて伐採せずに築城し、ほぼ出来上がった時点で、木を一気に伐採することで、あたかも“一夜にして”城が出来上がったかのように見せかけたそうです。やはり仕掛けがあったようですね。

 

そこで、松本清張の小説(『眩人』)の一節を、

〜略〜

旋舞のほか幻術は大夫人をもつともよろこばせた。それは呑刀・吐火・舞剣・植瓜(しょくか)・種棗(しゅそう)などの種目である。

植瓜(しょくか)・種棗(しゅそう)というのは、共にいま蒔いた種からすぐに芽が出て幹が伸び、たちまち花が咲き、実が成るという奇術だが、もちろんこれには仕掛けがある。鉢の中に発条(ばね)の付いた造り樹と花と実を隠しおいて、種を鉢の中に蒔くと、たちまち中の発条が伸び、樹木と花実が鉢の中から出現するというしくみである。これは大食国(アラビア)より渡ってきた手品である。〜以下略〜

(松本清張著『眩人』P338、中公文庫)

大夫人とは、藤原不比等の娘で、文武天皇の后、藤原宮子のこと。

主人公の僧、玄昉が西域(波斯人=ペルシャ)出身の少年・康許生(小説では、後に李密翳(り みつえい)と改名)を伴い唐から帰朝。そして玄昉は、唐で仕込んだ知識と幻術を武器に、朝廷での権力伸張を狙う、と言うストーリー。

なお、李密翳(り みつえい)は、実在の人物で、『続日本紀』に名前の見える唯一の波斯人(ペルシア人)とされています。

大夫人宮子は、子(首皇子=後の聖武天皇)を出産後、心の病となりましたが、ある方法によって劇的に回復します。

引用の部分は、大夫人を慰めるための幻術について語るシーン。

(うり)とか棗(なつめ)の話なので、銀杏とは直接関係はありませんが、単純な私は、大銀杏にもきっと何らかの仕掛けがあったのに違いないと想像(妄想かも)しています。

また、童話の『ジャックと豆の木』ではありませんが、樹木が一夜にして成長するなんて、見えざる何か?があったのかもしれませんね。それはわかりません。

言い伝え通りとすれば、大銀杏は700年近く春日部八幡神社を守ってきたわけですので、生命力溢れるパワーを感じます。

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これからも、大銀杏に手を当てて、パワーを頂きたいと思っています。

 

 

参考:

春日部八幡神社の公式サイト
↓↓
春日部八幡神社について | 春日部八幡神社

 

 

 

眩人 (中公文庫)

眩人 (中公文庫)

 

 

 
 

粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」は新方荘惣社⁉

粕壁宿には、春日部八幡神社、東八幡神社、元新宿の八幡神社と八幡神社が三社あります。

今回は、その内の一社、粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」のこと。

春日部八幡神社

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春日部八幡神社参道

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春日部八幡神社

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境内の説明板

 新編武蔵風土記稿にも粕壁宿の鎮守として掲載されている春日部八幡神社は、元弘年中(1331〜1334)この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものといわれている。この神神社は、春日部氏の領地であった新方領(にいがたりょう)の総鎮守であり、その鳥居には「新方荘惣社」の額が掲げられている。天保十一年(1840)の氏子連名帳には、現在の久喜市、杉戸町、白岡町、宮代町を含む五十二ヵ村の氏子三千六十五名を記録している。

 本殿後方の高地にある旧本殿は、茅葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物として春日部市指定文化財となっている。

 参道入口の左側には、嘉永六年(1853)に粕壁宿の名主関根孝煕らが建立した在原業平(ありわらのなりひら)の故事とこの八幡神社の由緒を伝える石碑がある。

 また、参道中央の大イチョウには、元弘(1331〜1334)年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに成長し、参詣人を驚かせたという伝説がある。

 この神社の境内につづく稲荷神社には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ八・ニメートル、周囲ニ百メートルにも及ぶ、この辺りでは最も大きい富士塚がある。この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた富士講による富士信仰の対象として築かれたもので、弘化ニ年(1845)に行われた修復工事には、粕壁宿はもとより、幸手領、岩槻領からも大勢の信者が集まったと記録されている。毎年七月一日の初山には、市内各地より赤子を抱いた母親が、子育ての無事を祈ってこの富士塚を訪れている。

  昭和六十一年三月 

          春日部市

この説明板は、設置後33年も経っていますので、少し補足を。

白岡町は現在の白岡市。また、市内で最も古い建造物とされた旧本殿は、平成7年11月5日、不審火(放火?)により、残念ながら焼失してしまいした。

また、元弘年中と言えば、元弘元年(1331)後醍醐天皇によって起こされた政変。いわゆる「元弘の変」があったときです。

「元弘の変」は、鎌倉幕府滅亡の直接のきっかけとなったともいわれています。そのような時に鎌倉から八幡神を勧請するとは、よほど鎌倉幕府に忠誠を誓う必要があったのか、それとも戦に備えて八幡神に頼ったのか……

わかりません。

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郷社  八幡神社

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安政5年(1858)再建の鳥居 

安政5年と言えば、いわゆる「安政の大獄」があった年です。なお、この鳥居には「新方荘惣社」と刻まれた額があるとのことですが、いつ見ても額の文字はよく見えません。

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春日部八幡神社御社殿御末社案内図

ご祭神

  • 誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
  • 息長足姫尊(おきながたらひめのみこと)(神功皇后)
  • 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
  • 豊受姫命(とようけひめのみこと) 

の四柱。

武内宿禰命は、景行天皇から、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇そして仁徳天皇までの5代の天皇に仕えた忠臣とされ、300年以上も生きたと言われています。三遊亭金馬師匠も朝鮮半島遠征から帰還した神功皇后を宇佐で出迎えた、と。いくら長命と言われも、300年とは?

それぞれの天皇に仕え、似たような事績を残した何人かの人物を、一人の人物に統合して武内宿禰像をつくりあげたのでは、とも考えられます。

なお、この武内宿禰は、春日部氏の祖先、紀氏の祖(おや)ともいわれています。そのため、春日部にある八幡神社には必ず祀ってあるとか。

豊受姫命の神名、「豊受」の「ウケ」とは食物のことで、食物・穀物を司る女神で伊勢神宮外宮の神様で知られています。天照大神の食を担った神とも。

『新編武蔵風土記稿』には、 

宿の鎮守なり、元禄年中、別当玉蔵院の住僧の書せし縁起に、昔元弘中新田左中将義貞の家臣春日部治部少輔時賢なるもの当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為則鶴岡を写してここに勧請すと云、因って昔は新方の惣鎮守にて社宇荘厳を尽くせしに其後遥かの星霜を歴て屡盛衰在りしが、今は又社殿備り頗る旧観に復す。末社弁天云々

と記されている。 

『武蔵国郡村誌』には、 

八幡社「郷社」字浜川戸にあり、近郷数十ヶ村の総鎮守なり、誉田別尊を祭る。祭日九月十九日。相伝ふ元弘中新田左中将の家臣春日部治部少輔時賢なる者当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為鶴岡に擬して、此処に勧請すと云域内大杉古松等繁茂せり就中社前にある大銀杏二樹(元は三樹ありしが一本は近古枯れたりと云ふ)は鎌倉より飛び来ると云ヘり而して社宇は頗る荘厳を尽くせり。

ご神木のイチョウのことも記されています。古くは3本のイチョウの木があったようです。 

また、前出の説明板にある

『春日部八幡宮氏子連名帳』【八幡神社所蔵文書】には、

武蔵国埼玉郡新方庄八幡宮は、鎌倉大将軍旗下の大名春日部氏世々に居城の域地古隅田川を後にして大場沼・谷原沼を前に当たり一座の砂山杉松の古木鬱蒼たる処に鎮座ましまし新方四十余郷の宗祠にして城主の氏神と尊宗し奉る神社なり、境内除地壱町歩余其外免地の末社四方に羅列し毎年六月角力会・八月放生会・九月の神事月々朔望の神楽連綿として今に相続す。

6月には奉納相撲が、また8月には放生会が行なわれていたようです。

なお、放生会(ほうじようえ)とは、仏教の殺生戒(五戒)の思想に基づいて行われる鳥獣や魚を放つ宗教儀式。全国の寺院のほか、八幡神(八幡信仰)を祀る神社を中心に行われており、宇佐八幡宮や石清水八幡宮などの放生会はよく知られています。

奥の院

以前、市の指定文化財であった奥の院(旧本殿)は、前述の通り、平成7年11月に不審火により焼失しましたが、翌年(平成8年)に地域の人々の力により、復興・再建されました。

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奥の院参拝通路
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さらに…

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到着……

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焼失前の社名碑

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奥の院

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奥の院復興記念碑

 

春日部八幡神社の公式サイト

↓↓

春日部八幡神社 

 

参考・引用:

  • ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著  1996
  • 『春日部市の文化財』春日部市教育委員会  1979.12.1

 

 

八幡神社のことをいろいろと⁉

そろそろ「春日部八幡神社」のことを、

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春日部八幡神社社殿

とその前に。

今更ですが、

八幡神社

八幡さまは庶民的な神

八幡神社は、八幡さまとか八幡さんと呼ばれ親しまれています。子供の頃、近くの八幡さまでよく遊んでいました。お祭りもありました。

その八幡神社は、分祀も含めて全国に3〜4万社あるのことで、お稲荷さま(稲荷神社)に次いで、二番目に数が多い神社と言われています。日本全国どこの町や村に行っても出会う神さまです。

戦前までは、武神として崇められてきましたが、戦後は、平和の観念のもと、交通安全から学業成就、縁結びなど所願成就の神として、庶民的で親しみやすい神さまとしてすっかり定着しています。

古典落語の世界では

私は、八幡神社と聞くと、「紀州」という落語での三代目・三遊亭金馬師匠の「まくら」(話しの前振り)を思い浮かべます。

「紀州」という落語は、徳川第七代将軍家継が7歳で亡くなり、その跡目として御三家の尾州公と紀州公が打診されるが、結局、紀州公の吉宗が八代将軍になるというお話。そして、「キシュー」という鍛冶屋の音が話のオチ。

金馬師匠は、「人間の命の短さから、母の胎内に一日でも長くいると賢い子になる、一番長くいたのは、三年三ヶ月もの間、母(神功皇后)の胎内にいたとされる応神天皇」という具合に話を進めます。 

朝鮮半島遠征から帰国した神功皇后を武内宿禰が宇佐で出迎え、無事、応神天皇が生まれます。応神天皇誕生に因む宇瀰(うみ)、嬉野(うれしの)の地名譚や屋根を菖蒲で葺く由来などなど(もちろん真偽の程わかりませんが)、金馬師匠の流れるような語り口に「ふ〜んそうなんだ」と妙に感心していました。

そして、応神天皇が母の神功皇后共に戦い強いということから、総本社の宇佐八幡宮(大分県)の御神体として、「弓矢八幡大武神」と崇められ、宇佐八幡宮から男山(石清水)八幡宮(京都府京都市)を中継し、源頼朝により鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)へ、そして、徳川家康により、江戸・深川の富岡八幡宮(東京都江東区)へと話しをつないでいきます。最後に八幡神社を最も篤く信仰したのは徳川家康、と「まくら」をまとめ、落語の本題に入ります。

八幡信仰

前述の通り、日本では、分祀を含め、稲荷神社に次いで八幡神社が多いとされています。 

八幡信仰は、金馬師匠の話の通り、九州・大分県宇佐市にある宇佐八幡宮から日本全国に広まりました。

古代の宇佐地方は、瀬戸内海方面と大陸や朝鮮半島との中継地として重要な立地にあり、そして、その他を拠点とする宇佐氏という地方豪族(首長)の本拠地でもありました。

宇佐氏は航海民(海人族とも)と言われ、漁業や航海に長けた人々でした。宇佐氏は、自分たちの祖先神として海人を祀っており、後にその神が八幡(やはた)の神と呼ばれるようになったとされています。八幡(やはた)の「八」は大数で「多い」という意味で使われ、船に多くの大漁旗が立てられている様子を表す言葉と言われています。

また、古代の宇佐地方は、秦王国があった地域とも言われています。そのため「旗」は「秦」ではないか、という説もあり、秦王国との関わりを指摘する方もいます。

大和朝廷との関わり

宇佐の神が八幡神として信仰された経緯は、はっきりしていないようですが、4世紀頃、大和朝廷は九州を支配するため宇佐氏の力を重要視し、そのために宇佐の神を祀る宇佐八幡宮を重んじるようになったと言われています。

また、奈良時代の東大寺建立の際、宇佐八幡宮の巫女に「奈良に赴き大仏づくりを助けたい」という神託が下ったことを受け、聖武天皇は、この神託に大きな力を得て、大仏建立を成し遂げました。そして、奈良の都に手向山(たむけやま)八幡宮を建て、皇室が八幡神を祀るようになったと言われいます。

主祭神は

宇佐八幡宮の主祭神は、和風諡号が誉田別命(ほんだわけのみこと)・第15代天皇の応神天皇、母神の息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) ・神功皇后、そして、比売大神(宗像三女神)です。全国にある八幡宮・神社も主祭神は応神天皇です。いずれにしても、誉田別命よりも漢風諡号の「応神天皇」がよく知られています。

宇佐八幡宮には、6世紀の欽明(きんめい)天皇(539〜571)の御代、宇佐神が神職に「われは応神天皇である」というお告げを下したとする言伝えがあり、以来、八幡神が応神天皇であるとされました。もちろんその当時、応神天皇と言う名前はありませんから、誉田別命ですが。

武士の信仰

しかし、その言伝えは平安時代後期にできたものと思われる、とする説もありますので⁇  ややこしいですね。

それでは、何故、八幡信仰が全国に広まったのでしようか?

平安時代後期、武家の棟梁である清和源氏の八幡信仰が高まった時代がありました。勇名で知られた源義家(みなもとのよしいえ)は、京都・男山の石清水八幡宮で元服し、自らを「八幡太郎義家」と称しています。このように源氏が、八幡神と朝鮮半島遠征にまつわる応神天皇とを結びつけたと考えられます。

更に、清和源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開き、鶴岡八幡宮を信仰したことをきっかけとして、鎌倉幕府の麾下の武士の間に、幕府に忠誠を誓う意味もあり、国家鎮護や家運隆盛をもたらす神として、八幡信仰が一気に広まっていったと考えられます。そして、全国にも。

私も毎年正月、「春日部八幡神社」に初詣に行っています。今春の選抜高校野球に出場した春日部共栄高校の選手たちも甲子園球場に行く前に必勝を祈願したと聞きました。結果は残念でしたが。

邪馬台国は宇佐にあった?

ところで、私は、「宇佐」と聞くと、推理小説家の高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』という小説を思い出します。ちょっと横道ですが。

高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』は、源義経は成吉思汗である、という大変インパクトのある結末で、確か高校生の頃読みました。また、学校(高校)で著者の高木彬光氏の講演を聴いた記憶があります。

そして、その後出版されたのがこの『邪馬台国の秘密』。

宇佐大神宮の御祭神は応神天皇、神功皇后、比売(ひめ)大神の三柱で、中央の社が比売(ひめ)大神。後年、大和朝廷が宇佐大神宮を伊勢神宮より重視したという記録があることから、比売大神即ち卑弥呼説?を展開しています。

入院加療中の名探偵・神津恭介(かみづ・きようすけ)と友人の推理作家・松下研三(まつした・けんぞう)が、『魏志倭人伝』をもとに、邪馬台国はどこにあった?  女王・卑弥呼とは?という謎に果敢に挑戦するストーリー。主人公は入院中で、ベッドの上で様々な推理(ベッド・ディテクティヴというそうです)を働かせ行きます。

そして、邪馬台国は宇佐にあった、卑弥呼は比売大神ではないかと推理し、更に、神功皇后は卑弥呼の孫(原文のママ)壱与に比定しています。

とすると、応神天皇は壱与の子?そして、応神天皇は異民族の血をひく君主とも。あくまでも高木彬光氏の説ですが。当時、ワクワクして読んだ記憶があります。また、結構、話題にもなり、確か、いろいろと論争もあったと記憶しています。半世紀も前のことです。

なお、『古事記』(中村啓信=訳注、角川文庫)の解説で、

神功皇后という人物が注目に値するのは、母が葛城之高額比売(かずらきのたかぬかひめ)であることである。ちなみに父は息長宿祢王(おきながすくねのみこ)で、第九代開化天皇(かいかてんのう)の皇子日子坐王(ひこいますのみこ)の血を引く。この高額比売は早く我が国に渡来した新羅王の子天之日矛(あめのひほこ)の六代の孫、多遅摩比多詞(たじまひたか)の娘であり、『古事記』は「これは息長帯比売命の母君である」と注もつけている。つまり帯比売は確かに新羅王統の血を引くという。しかし、世系は遠く隔たり王族とも言えない。以下略

(新版古事記 現代語訳付き 中村啓信=訳注 角川文庫15906)

と書いてあります。やはり新羅王の血統?なのでしようか。

邪馬台国を研究している考古学者はいない?

しかし、以前(8年程前)、通信制の大学のスクーリングを受講した際、考古学者の酒井龍一教授(当時)は、「考古学者で邪馬台国を熱心に研究している考古学者は皆無である」と仰っていました。「何しろモノの史料が全くありませんので」と。そういうことなのでしようね。 

 

落語から推理小説まで、かなり散らかってしまいました。すみません。八幡神社ことをいろいろ考え、時を超えて遊んでみました。

 

ところで、「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産登録決定とのニュースが先ほど速報で流れました。嬉しいですね。関係者の皆様おめでとうございます‼

 

 

古典落語も結構面白いですよ。YouTubeでも聴くことができますので、たまには如何がでしようか。

 

NHK落語名人選100 12 三代目 三遊亭金馬 「居酒屋」「紀州」

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邪馬台国の秘密 改稿新版 (角川文庫 緑 338-51)

邪馬台国の秘密 改稿新版 (角川文庫 緑 338-51)

 
新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 




飛鳥人にとっての星空は旅愁をいざなう絵画⁉️

6月29日(土)、大和文化会の「公開講座」を聴講しました。

会場は、

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三吉橋から見た「銀座ブロッサム 中央会館」

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演題:「キトラ・高松塚古墳壁画の宇宙観

ー飛鳥人が思い描いた星空の世界ー」

講師:来村 多加史(きたむら・たかし) 

阪南大学国際観光学部教授

ご専門は中国考古学及び中国軍事史

講演のポイント

  • 我が国には、星座に関する歴史史料も考古史料もほとんど見当たらない。
  • 日本書紀にも日食、月食など天変地異は書かれているものの、星や星座に関することは書かれていない。
  • 万葉集に柿本人麻呂の歌が見られるのみ (巻7-1068)

    天の海に 雲の波立ち 月の船 

     星の林に  漕ぎ隠る見ゆ   

 

兄弟古墳

  • キトラ・高松塚の両古墳とも谷筋の奥にあり、従来の「尾根の上にある古墳」と言うよりむしろ「谷の中にある古墳」、どちらかというと控え目な古墳の印象。
  • 両古墳とも構造的にはよく似ている。キトラと高松塚で共通に描かれていたのは、「四神図」である。両古墳の「四神図」は極めて似通っており、その点も兄弟古墳と呼ばれる所以である。なお、「四神図」は、天と地を結ぶ媒体としての意味を持つ。
  • 絵を書いた人物は、中国・唐に留学経験がある人物の可能性が高い。この人物が唐から「四神図」などの原画を持ち帰えり、両古墳の壁画の創作に関わったことは間違いない。
  • 特に、「玄武図」については、中国における「玄武図」の描かれ方の歴史から、両古墳の「玄武図」には微妙な違い認められる。
  • そのことは、キトラ古墳で先に描かれ、その後、高松塚古墳で修正が加えられた可能性を示しているのでは?

キトラ古墳の天文図

  • 現存する世界最古の星図と言われる「南宋淳祐天文図」(南宋・淳祐7年(1247)石に刻まれている天文図)と比較すると星や星座(宿座)の数が少ない。
  • キトラ古墳の天文図は星図(原図)を見て描かれた絵画(デザイン画?)と思われ、星の位置は正確とは言えない。
  • キトラ古墳の天文図は、朝鮮半島の影響は受けていない。書いたのは日本人の可能性が高い。
  • 断定はできないが、書いたのは、持統天皇の葬儀を取り仕切った人物と思われる。その人物は唐に留学した経験を持っている。人物名は?
  • 星図に使われた星表のような観測ができる体制や能力があるのは古代では中国しかあり得ない。よって、どこで観測された(どこの)星空なのか?という疑問はあまり意味がない。高句麗の平壌の星空ということはあり得ない。

誤解していた?

以前(2014.4.5)、大和文化会例会で聴いた「キトラ古墳語り合う―壁画発見30年を顧みる―」という講演で、講師の京都橘大学名誉教授の猪熊兼勝氏は、天文史の宮島一彦氏の意見とした上で、「キトラ古墳に描かれた天文図は、高句麗の首都、平壌の夜空である」と述べていました。

今回の講演で、来村先生は、そのことを否定されました(それも一蹴)ので、びっくりしました。私は、ずーっと平壌の星空と思ってきましたので。古代中国で観測された星図が元だとは、知りませんでした。誤解だったのでしようか。

キトラ古墳の天文図の元になった原図も唐代の紀元400年頃の星表を元に描かれていたようです。きっと高松塚古墳の星宿図についても同じなのでしようね。

高松塚古墳の天文図は天蓋?

  • キトラ古墳と高松塚古墳の天井の形状は異なる。キトラ古墳は「屋根形」で高く、高松塚古墳は「平天井」で少し低い。 
  • キトラ古墳の天文図は、星、星座の数が少ないが「天文図」に近い。一方、高松塚古墳の星宿図の場合は、星の数も少なく、位置も正確とは言えない。むしろ絵画、デザイン画のようである。
  • また、高松塚古墳の星宿図は、まるで、菓子折りの箱の展開図のように、四隅がほぼ正方形に欠けているかのように見える。
  • そのことに着目し、発想を飛ばすと、法隆寺の釈迦三尊像の中の間の「天蓋」にヒントを得る。
  • 更に、571年の「北斉徐显秀墓」の壁画を例に、君主の外出の移動の際、君主の頭上にさす傘つまり「天蓋だったのでは」、と想像する。
  • 紀元571年に亡くなった北斉の高官「徐顕栄」は、その墓葬も豪華を極めたとされ、墓主の外遊場面などを多彩に描いている墓室の壁画は、保存状態が極めて良好で天蓋を初め、儀仗隊の服飾、車飾、馬具などの細部まで見事に描き出しており、当時の壁画が高いレベルあったことを伺わせる。
  • 中国の古典『礼記』「曲礼上」に「進(すす)むに朱鳥(しゅちょう)を前(まへ)にし、而(しこう)して玄武(げんぶ)を後(うしろ)にし、青龍を左にして、而(しこう)して白虎を右にし、招揺(しょうよう)上にあり」とある。
  • 招揺(しょうよう)とは北斗星の第七星であるが、一星だけでは絵にならないだろうから、天極を示す星座が描かれた旗か蓋(きぬがさ)と推測される。天子行軍の儀仗を記したものであるが、高松塚古墳天文図の意味を考える際に最も重要な史料であると思う。
  • 「天蓋」と考えると、高松塚古墳の星宿図の四隅が欠けていること、天井が「平天井」であることも腑に落ちる。
  • また、高松塚古墳の壁画には人物群像が描かれている。特に女人群像(いわゆる飛鳥美人)は、日傘(天蓋)をさし、さあ、「ご一緒に外ヘ」、と言わんばかりで、あたかも被葬者を誘(いざな)っているようにも思える。その天蓋の裏側には星宿図が描かれている。
  • なお、来村先生は、自身の著書の中で、「(高松塚古墳の壁画は)いわば女性たちが左右から歩みより、被葬者に一声かけて外出するような構図である。殿方がお待ちですよ。早く出かけましょう……女性たちの言葉はきっと優しいささやきであったに違いない。」(来村多加史著『高松塚とキトラ  古墳壁画の謎』2008.1.30、講談社)と表現しています。ロマンチックですね。

 

そして、来村先生の結論は、

   「飛鳥人にとっての星空は旅愁をいざなう絵画である」

 

今回の講演は、古墳の被葬者には一切触れませんでしたが、とても面白い内容でした。来村先生は、言葉もはっきりとお話しになるので、説得力がありました。

 

参考

法隆寺のサイト

↓↓

仏像 - 金堂 | 聖徳宗総本山 法隆寺

奈良文化財研究所のサイト

↓↓

キトラ古墳について

キトラ古墳とは | キトラ古墳壁画体験館 四神の館 キトラ古墳壁画保存管理施設

国営飛鳥歴史公園のサイト

↓↓

キトラ古墳について

https://www.asuka-park.go.jp/area/kitora/tumulus/

高松塚古墳について

https://www.asuka-park.go.jp/area/takamatsuzuka/tumulus/

 

ご興味のある方は、来村先生の書籍をどうぞ。

 

キトラ古墳は語る (生活人新書)

キトラ古墳は語る (生活人新書)

 
高松塚とキトラ  古墳壁画の謎

高松塚とキトラ 古墳壁画の謎

 
上下する天文―キトラ・高松塚古墳の謎

上下する天文―キトラ・高松塚古墳の謎

 

 

 

 

業平朝臣が隅田川で都鳥を見た季節はいつなのか?を考えてみました‼

かすかべのことを続けます。 

「都鳥の碑」と「業平橋」のことを書いてきました。記事を書くにあたって、いろいろ調べてみました。

すると、その過程である疑問が…

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大落古利根川のユリカモメ

在原業平朝臣

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在原業平(狩野探幽三十六歌仙)(Wikipediaより)

「むかし、男ありけり…」で始まる伊勢物語の主人公とされる在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)は、第51代平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の第五子。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。また、古今和歌集の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人とされています。なお、『伊勢物語』は、古くから在原業平実伝の物語であるとされてきました。

 伊勢物語

第九段「東下り」

『伊勢物語』には、

業平朝臣は、藤原氏の権勢が日毎につのりゆくのを憤って、心は常に穏やかならず、平安の都に住むのも厭とわしくなり、東国に居場所を求めて下って行った。と

 そして、九段の「東下り」後段には、

なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大(おほ)きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京(きやう)に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしあしと赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京(きやう)には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん都鳥(みやこどり)」と言ふを聞きて、
 名にし負はばいざ言問はむ都鳥
   わが思う人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣にけり。

『新版 伊勢物語』(石田譲二=約注、角川文庫466)、伊勢物語は、作者、成立共に未詳。

訳としては、

そうして旅枕をかさねて、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡し場に着き、渡し守に急かされ、舟に乗って川を渡ろうとしたとき、川の水面に遊ぶくちばしと足が赤く翼の白い水鳥の群れを見て、都では見たこともない鳥と思い、渡し守に尋ねた。
すると、渡し守は「みやこ鳥」と答えたので、業平は京都のことを思い出して、ひしひしと迫る旅愁とともに懐旧の想いに心乱れて、
「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと」と歌を詠まれた。

と、一部略しましたが、概ねこのように書かれています。

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風流錦絵巻伊勢物語 歌川春章画。第九段の東下り隅田川の景を描く。(Wikipediaより)

この「東下り」の段は有名ですね。高校生の時習いました。その頃は、当地とは全く無関係でしたが、半世紀を経て、業平のことを書くなんて、今はとても不思議な気がしています。 

都鳥を見た季節は?

ところで、業平朝臣が「東下り」の時、国境の隅田川の渡し場で、都鳥を見たとされる季節は一体いつなのでしょうか? 

どうでもいいことですが、とても気になります。

都鳥をユリカモメだとすると、隅田川の水面にいるのは、晩秋から早春(3月頃?)までだと思います(古利根川の場合はそうですので)。

第九段の前半で、愛知県八橋で杜若(かきつばた)の花を織込んで、

  らころも   着(き)つつなれにし

   つましあれば   るばるきぬる

      たびをしぞ思ふ

『新版 伊勢物語』(石田譲二=訳注、角川文庫466)

と詠んでいます。

杜若(かきつばた)という花は5月の上旬〜中旬に咲く花です。

それから、駿河の宇津の山(現在の静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠)で富士の山を見て、歌を詠み、五月のつごもり(晦日)に、富士山には雪が白く残っていると書かれています。五月末には駿河(静岡県)にいたことになります。旧暦の五月末は、新暦だと七月初旬でしょうか。

そして、武蔵国と下総国の境にある隅田川の渡し来たのは、その後ということになりますので、六月に入ってから。当然、旧暦ですので、新暦だと、八月の初め頃でしようか。

そうすると、いわゆる冬羽(頭部が白い)のユリカモメは隅田川にはいないことになりますが…

もし、いたとしても夏羽は頭部が頭巾をかぶっているかのような黒褐色になるといわれますので、「白き鳥」には見えないと思います。

芭蕉に随行した曾良の随行日記のように書いてあれば別ですが、『伊勢物語』はあくまで「歌物語」であり、「紀行文」ではありませんので、日時を追って書いてあるわけはないと思います。後の編集や増補があったのでしょうか。

もしかしたら、隅田川に至る間、いろいろな土地を巡り、晩秋から初冬に武蔵国と下総国の国境に来たという解釈も成り立ちますが、そうするとその間は何処に?と、また疑問が生じます。まあ、それはないでしょうが。

伊勢物語と古今和歌集

なお、前掲書の補注で、訳者は、既に歌が古今和歌集等に載っていることなどを踏まえて、

〜略

諸種の点から見て、四段および九段の八橋と都鳥の両条が先に存在し、初冠本の成立した時に、宇津の山と富士の山との両条が加えられて、現在見るような九段が構成されたものであろう。以下略〜

と注釈されています。

※初冠本=伊勢物語の写本のうちで、「昔をとこ初冠(ういかうぶり=元服)して〜」という段から始まっている写本を「初冠本(ういこうぶりぼん)」という。なお、「昔をとこありけり、伊勢の国に狩りに使ひに行きけるに〜」の段から始まっている写本を「狩使本(かりつかいぼん)」という。 

確かに、「かきつばた」と「都鳥」の歌は、古今和歌集に、「かきつばた」の歌は410番、「都鳥」の歌は411番として載っています。

古今和歌集の都鳥の歌「411番」の詞書(ことばがき)には、

武蔵の国と下総(しもつふさ)の国との中にある隅田川のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに下りゐて、思いやれば限りなく遠くも来にけるかなと思いわびてながめをるに  〜以下略〜

『新版古今和歌集』(高田祐彦訳注、角川ソフィア文庫)

となっており、下線の「下りゐて」の部分の註釈として、「馬を下りて座って」と書いてあります。業平朝臣はどうやら馬に乗って旅をしていたようです。

『伊勢物語』には、そのような記述はありませんので、てっきり徒歩で旅をしていたとばかり思っていましたが、馬に乗っていたとは知りませんでした。馬を使うなんてさすが高貴な方なんですね。  

業平朝臣と紀氏そして春日部氏の縁

また、業平朝臣は、当時、妻帯していたようです。「かきつばた」の歌でわかります。業平の妻とされる女性は、紀有常(きのありつね)の娘です。もっとも、妻と言っても平安時代のことですので、単なる愛人かも知れませんが、でも、やんごとなきお方の娘さんですので、やはり正妻なのでしよう。

紀有常のことは『伊勢物語』第十六段に書かれています。有常は、『土佐日記』を書いた紀貫之(きのつらゆき)と同じ紀氏(きうじ)一族。

そういえば、紀貫之はこの『伊勢物語』の作者という説もありますね。

その紀貫之で知られる紀氏(きうじ)は、春日部氏の先祖とも言われています。もちろん時代は全く異なりますが、不思議なご縁といえます。

なお、春日部八幡神社を勧請したのは、鎌倉時代に当地を支配支配していたとされる春日部氏です。

ということで、

最後に

別に、文学論を展開するわけではありませんので、これで終わりますが、いろいろ考えると、とても面白いですね。

  • 『伊勢物語』をもとに、業平一行が隅田川に来た季節について少し考え、遊んでみました。
  • 果たして、業平は隅田川の水面に遊ぶ冬羽の都鳥(ユリカモメ)をいつ見たのでしょうか? 春、夏なのでしようか、それとも秋、冬? おそらく多くの研究者の研究成果があるのでしようが、浅学な私にはわかりません。
  • 『伊勢物語』は千年以上もの長い間、業平朝臣の実伝として多くの人に読み継がれてきた大事な文化遺産ですので、私ごときがこれ以上言うのは僭越ですので差し控えます。
  • でも、業平朝臣は昔の隅田川(できれば当地の)で冬羽の白い都鳥を見て、歌を詠んだと思いたいですね。
  • そして、ユリカモメに「お前さんは、一体、何時どこで業平朝臣に会ったんだい?」と、問いたい気持ちです。
 
なお、ここに書いたことは、あくまで私見です。どうぞご理解ください。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。 

 

 

新版 伊勢物語 付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

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新版 古今和歌集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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権現堂桜堤の紫陽花はまるで白いゲレンデ⁉

梅雨空の下、白いアジサイを見に幸手権現堂桜堤の「あじさい祭り」に行ってきました。平日だったので、駐車場は空いていました。

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幸手あじさい祭り

桜と菜の花のコントラストで有名な幸手権現堂桜堤ですが、桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を見ることができます。

今は紫陽花が見頃で、公園を管理しているNPO法人「幸手権現堂桜堤保存会」によると、アジサイは、約100種、約1万6000種類が植えられているとのこと。お手入れにもご苦労されているようです。

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純白で大ぶりのアジサイ「アナベル」

3000株を密植した斜面は人気の区画だそうです。

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違う角度から

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5〜7月初旬の紫陽花に続き、9月には曼珠沙華(彼岸花)と、権現堂桜堤では季節ごとの植物の色づきをほぼ一年中楽しむことができます。

桜の季節は、華やかで心も弾むような気分でしたが、紫陽花は、しっとりした大人の雰囲気が感じられました。

秋の曼珠沙華(彼岸花、ヒガンバナ)も見に行く予定です。

なお、「第19回幸手あじさい祭り」は、2019年6月1日(土)~6月30日(日)※開花の状況により期間の変更があります。

 

詳しくは、

幸手市観光協会の公式サイト

↓↓

あじさいまつり | 幸手市観光協会